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ふにおちる、ということ

 頭では分かってるんだけど、どうしても納得できない。どうしても体が動かない。そんなことがよくある。

 そんなときいつも「腑に落ちる」という言葉が思い浮かぶ。五臓六腑の腑。内臓のことだ。まさに、「腑」に落ちていない、身体感覚として理解していないからこそ、頭では分かってるんだけど……と思ってしまう気がする。そんな気分にこの言葉はぴったりだ。そういえば、ガッツを見せろ!のガッツもguts、腸のことだ。やる気とか納得とか、それらは頭ではなく体で感じるものなのかもしれない。


 何度かわたしは愛を感じられない気がする、と書いてきたけれど、お母さんと少し話してなんとなく愛してもらっているんだなあということは分かった。けれどやっぱり心の中ではそうなのかな?本当に?と思っていて、まだはっきりと愛されているなあと感じてはいない。もしかしたらそれはもっと先に今のことを振り返って、そしてようやく「腑に落ちる」種類のものかもしれない。

 逆に、頑張りすぎなくていいよ、という言葉は最近腑に落ちるようになってきた気がする。休日に寝てばっかりいても、やろうと思っていたことが出来なくても、疲れてやる気が出なくて授業をサボったりしても、まあ今は休もう、と思えたりする。以前なら頭では休んだ方が良いと分かっていても焦りや罪悪感が強かった。


 二元論的に考えるとき、人は心と体に分けようとするけれど、実は思考vs心と体、という分け方のほうが実態に合っているのかもしれない。noteに書いてきたように、わたしは頭で考えて理解したいという思いが強いのだけれど、そのせいで腑に落ちるまで待っていられないという弱点があると思う。頭では分かってるんだけど……を繰り返して苦しんでしまう。思考ばかりが先走って、心と体がついていかない。心だって体の一部だ。緊張して鼓動が早くなって、悲しみに胸が痛んで、怒りで頭に血が上る。実際に心の痛みと体の痛みは脳の近いところで知覚されているらしい。いくら人間が一生懸命思考して言葉にしても、それだけでは心と体を変えたり支配したりすることは出来ない。


 「腑に落ちる」ことにはどこか怖さも感じる。きっと、一度心と体に馴染んで仕舞えば自分が変わってしまうからだ。愛されていると実感したとき、今までわたしが感じていた苦しみはどうなってしまうのだろう。休んでもいいやって思うようになって、怠け者になってしまったらどうしよう。そんなふうに変化を恐れている。

 でももう少し、心と体が感じていることに身を委ねてみてもいいかなと思った。最近いつも眠くてぼうっとしているけれど、そのおかげで辛さや不安もあまり感じなくなってきた。人が怖いという気持ちも薄れてきた。だからそれも悪くないと思える。今までひたすら思考し続けたぶん、感覚のなかに揺蕩ってみたい。

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