ノスタルヂア
ノスタルジアとは「病」であり「痛み」である。そのように定義されている。故郷を懐かしんで痛むこころ。喪失感とその苦痛は、病であると考えさせるに足るものなのだ。
故郷を思い、ノスタルジーを感じるときに活動する脳の部位がある。時にひとを苦しめ、しかし自身の来し方を確かめる感情。恐らく人のこころにとって重要なのだろう。共同体への帰属意識、そしてそこからの離脱の痛み。生存に必要なこころの動きだったのだろう。
では、その喪失感を喪失したとき、人のこころは痛むのであろうか。私はそうは思わない。そう感じなかった、と言うべきであろう。懐かしい故郷の風景。画面越しではノスタルジアなど感じない。実際に故郷の風を感じても、変わりゆく風景を見ても、こころは痛まない。痛まないことを、ただ茫然と感じている。そこに感情がない、ということを、感じている。
ノスタルジーを感じるべきだ、という理性。それを感じないこころ。傍観している私自身、あるいは私も知らない誰か。
故郷はただ単に詳細な知識を持っているだけの土地と化した。インターネットで漁ればあっという間に手に入るような知識。インターネットよりも更新速度の遅い知識。誰ひとり必要としない情報。私自身もそれを必要としていない。
その穴を埋めるかのように、私は人びとに知識を披露する。私の故郷について知らない人に、ひたすら過去の経験から得た情報を伝える。それは感じることの出来なくなったノスタルジアからの、最後の救難信号であるのかもしれない。私は感情を持たぬまま言葉を紡ぐ。SOSを聞き入れることなく、ノスタルジアから逃れようとするかのように口を開く。
空っぽの故郷と上っ面の知識。こころに開いた穴は、感じることもできないのに、そこに存在している。
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