仕事のできる女性、の子ども

 わたしの母は、経歴を見ると「バリキャリ」に見えるのではないかと思う。公務員として長く働き部長職にまでなった。世代的にも、女性がそこまで出世するというのは珍しいというか、やっと普通になってきた頃かと思う。

 この頃、女性は家事育児と仕事を両立しなければ仕事ができると言われない、という話題を見かけたので、そういう女性の子どもは何を考えていたのかを書いてみたいと思う。もちろんごく個人的な話でしかないけど。

 両親は共働きだった。父方の実家は家から遠く、逆に母方の実家は歩いていけるほど近かった。だから保育園生の頃くらいは、いとこたちの歳が近かったのもあってかよく預けられていた。
 それに当時の母の職場はさほど忙しくなかったのもあって、わたしは一歳から保育園に預けられてはいたものの、それなりに時間的な余裕もある時期だったと思う。
 しかしわたしなりに我慢していたこともあった。正直保育園に馴染めていなくて、友達も少なく、年度によっては担任に嫌われているなと感じたこともあった。しかし、あまり強く休みたいとか行きたくないと言えなかった。そういえば母が困るというのは幼いながらに分かっていたし、わたしは保育園に行く以外に選択肢があるとは思えなかった。だから、多少の嫌なことは母にも伝えなかった。心配もかけたくないと思っていたから。

 さて、ここまで父親の話は一切出てこない。なぜかというと、父親は家事育児をほとんどやっていなかったから。ほとんど、なので、少しはやっていた。中身は夏休みにわたしを連れて遊ぶとか、自己満足で家中をキレながら掃除するとか、それだけ。どちらも迷惑だった。わたしを連れてどこかに行くにしたって、母のお膳立てがなければ無理だったし、わたしも父親の機嫌を取るのに必死だった。そうでもしなければ怒鳴られるから。せっかく遊びに行っているのに楽しくなかった。

 そんなわけで、いる方が迷惑な父親は、もちろん家事や育児において何の戦力にもならない。平日は母より早く帰ってきてもご飯を作ったり洗濯をするなんて一切せず、座ってテレビを見ていた。
 小学校に上がる頃下のきょうだいが生まれた。そのときすでに、わたしは家の中で父親の機嫌を取ることに疲れていた。だからきょうだいができたことに喜べなかった。母親の負担が増えるのも目に見えていた。
 父親はなぜか育休を取ったらしく、つまり数ヶ月は家にいたのだが、わたしは全く覚えていない。あまりにも嫌だったのだろう。そしてその時も自分や子どもの食事は母に作らせていた。なんのために休んでいるのか、まったくもって意味不明である。

 母は復帰して早々にかなり忙しい部署に異動になった。それはわたしも分かっていたから、できるだけ母に迷惑をかけないようにということを第一に生きるようになった。父親の機嫌が悪いときはわたしが相手をする。母が家事をしているときはきょうだいを見守り、その反対もする。宿題とか勉強では絶対に煩わせたくなかった。学校で嫌なことがあっても言えなかった。
 わたしがそうしたのは、わたしから見て母が過労で倒れるんじゃないかと思ったからだ。夕方わたしたちを迎えた後、食事を作りまた仕事に出かけていく母を見ていた。いつ帰ってきていたのかは分からない。朝は誰よりも早く起きてご飯を作っていた。そんな生活、自分なら耐えられないと思った。わたしは自分を責めた。わたしがせめて早起きしてご飯でも作れたら。でも全然朝起きられなくて、結局甘えていた。
 
 母の迷惑になっていることや、父親に毎日のように怒鳴られることで日々憂鬱だった。自分がいなくなればいいと何度も思った。それすらも実行できなくて、甘えていたけれど。

 小学校高学年になって、受験のために塾に通うようになると母はますます忙しくなった。塾の送迎も加わるからだ。行きはひとりか祖父に送ってもらっていたけれど、帰りは遅いから迎えにきてもらわなければいけない。父親は酒が飲みたいと言って一度も迎えにきたことはなかった。
 その頃、祖母が倒れて介護も始まった。それは母のきょうだいたちが協力していたけれど、母だけ何もしないというわけにもいかなかった。それで、祖母が亡くなるまでの数年間は介護も加わった。

 その間も母は出世していった。世間では女性活躍と言われていて、年次もポジションもちょうど良かったのもあるだろう。母は出世したくないとずっと嘆いていたが、断ることはできない、もちろん、それは仕事を辞めるということだから。
 それに周りからもそれなりに妬まれたらしい。一番は父親だった。ことあるごとに女のくせにとか俺の方ができるとかお前が間違っているというようなことを母に言っていた。

 家にいるのが苦しかったわたしは勉強に逃げた。学校や塾で勉強していた。さらには受験に逃げ、大学に受かって逃げるように実家を出た。
 その間も罪悪感は常に付きまとっていた。母に家事をやってもらって自分は勉強だけしている。もちろん、できる分は手伝ったけど、それがどれほどの助けになったと言うのだろうか?そういう現実を見たくなくて、わたしは勉強していることを理由に逃避した。それを理由にしやすくするために、出来るだけ偏差値の高い大学を志望した。

 大学へ出てから、なんとなくわたしの過ごしてきた環境が周りと違うということが感じられた。わたしと同じく地元を離れている学生も、何かの折には親が訪ねてきていたり、寂しいからとよく電話したりしていた。わたしは実家のことを忘れたかったから、あまり親と連絡を取らないようにした。相談事も何もしなかった。進路の悩みも、そのほかも、何も。母が仕事で忙しいことは分かっていたから。

 本当は、そんなこと気にせずに母に甘えたり反抗したりしたかった。物心ついたときから、「お母さんは仕事で忙しい」ということをまず最初に考えて行動した。そうしなければならなかったのは、主には父親が何もしなかったからだ。わたしの父親は極端な例ではあると思うけれど、共働きなのに何もしない父親というのは、母親はもちろん子どもにも負担を与え続ける。そんなふうに思った。

 今どうなっているのかというと、母は忙しさや父親からの僻みに耐えかねて早期退職した。わたしは色々積み重なってうつ病である。

 母の職場の人から、「あなたのお母さんはすごいわね」と言われたことがある。確かにすごいけど、別にすごくなくていいから、もっと甘えられるお母さんがよかった。でも、本当に色々頑張ってくれていたのは知っている。文句なんて言えない。

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