まだ根に持っている

 ちょうど1年くらい前のことだった。大学の講義にはほとんど出ていなかった。朝は起きるものの動けず、そのまま逃げるように二度寝をして、午後の最後の講義が終わる頃に起きていた。講義に行かなくちゃ、と思い、そして行きたくないと思い、間に合わない時間になって少しほっとして、同時に焦っていた。

 それよりさらに1年ほど前は、ほぼ休まず講義に行っていた。その後研究室に行ったり、バイトをしたり。いまの自分とは全く違う人間のように思える。朝8時前に家を出て夜の11時に帰っていた。

 どうして前みたいに動けないんだろう。それは鬱が悪化したから。多分それが正しいのだけれど、前はできた自分、今はできない自分、というのを比べては嘆いていた。前の自分は鬱ではなくて(少なくとも悪化はしていなくて)、今の自分は鬱なのだから、比べても意味はない。けれど記憶が連続しているせいで同じ自分だと勘違いしている。

 そんな中で、たまの調子のいい日に講義に行った時に友だちと話した。「学校来ないで何やってんの?」と聞かれた。その友だちはわたしが鬱であることを知っていた。何やってんの、そりゃあ鬱で寝込んでるんだよ。眠っているか、やっとスマホでSNSを見るか、それ以外にできることはないから。でもそうは言えずに、曖昧に、何もしてないかな、と答えた。「暇じゃないの?」そう聞き返されて、そうかもね、と苦笑いした。暇。ずいぶん暇だなって思ったことがない。苦しいか死にたいか殺して欲しいかみんな死ねかそんなあたりのことばかり思っていた。

 その友だちは別にわたしを傷つけたかったわけではないと思う。そう思いたい。彼はどこかわたしが鬱病であることを信じたくないようだった。土日何してたのと聞かれてメンクリ行ってた、と言うと聞こえないふりをされたから、病院だよ、と適当に答えていた。当時自己免疫疾患の疑いもあってそちらの方にも通っていたから、そっちの病院だと思いたかったのだろう。
 わたしはみんなの前ではそんなに元気がなさそうには見えないと思う。本当に元気がない時はまず外には出られないし、外に出られたということは元気そうな演技をできるくらいの力はあるということ。だから彼はわたしの元気な側面だけを見て、なんだ鬱病っていっても大丈夫じゃん、と思ったのだろう。あるいはそう思いたかったのだろう。周りに鬱病の人がいると困るのだと思う。困る、というのは正しくないかもしれない。どう接したらいいか分からないし、どんな声かけが悪いか分からないし、こっちまで気分が下がる。そんな感じだろうか。もちろんそうじゃない人だってたくさんいるし、彼ももしかしたらそんなこと思ってなかったのかもしれないけれど、少なくともわたしの鬱病についてほとんど触れなかった。

 別に病気について触れないのはいい。わたしだって憐れまれたり同情されたいわけではないから。でも、学校来ないで何してるの、と言われた時の無邪気さに傷ついた。他の学校に来ていない同級生たちは、アルバイトや遊びや恋愛や部活に忙しくて、夜中まで起きて昼に寝ていたりするのだろう。昼に遊んでいたりアルバイトしている人もいるのだろう。だからわたしも同じだと思ったのだろう。でもそれは健常者の話で、病気の人間が同じことができると考えるのは間違っている。少しでも考えてみれば分かると思う。もしかして体調悪いのかな。普段から真面目に学校に来ている人がたまに休んだらそう考えもする。それならわたしにも同じように考えてみて欲しい、と思うのはわがままだろうか。

 いまだにこの言葉を引きずっているのは、自分自身が「こんなの怠けてるだけじゃないか」とどこかで思っているから。朝起きれないとか、ちょっと動いたら疲れるとか。そんなの言い訳、前は出来てたんだからやる気出せばできるはず。自分をそう責めてしまう。きっと病気のせいだって分かっていても、どうしてわたしは普通にやれないんだろうと思う。普通に学校に行って勉強して遊んだりしたい。

 これからはこの病気と付き合っていくしかないんだと思っている。だからできないことの増えた自分を少しずつでも受け入れたい。いつか受け入れることができた時、この言葉は忘れられるのだろうし、それまでは思い出しては悲しんで嘆いて怒っているのだろう。

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