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えっせいとは一体なんなのか、今日もよくわからないまま、またえっせいをかく

今、私がこのnoteでかいているものをジャンル分けするとしたら、大方エッセイというジャンルになるだろう。
私なりのエッセイの解釈はというと、「日々の出来事や感情をまとめた文章のこと」なのだが、果たしてエッセイにしかできないことって一体なんだろうか。最近、それをよく考える。まだ答えは出せていない。考えれば考えるほど、難しい。

でも、どうせかくなら理由や指針は持ち合わせておきたい。答えを持たぬまま、今、私はこれをかいている。

まずはエッセイのメリットから考えよう。

私は普段、よし今日は絶対にnoteをかくぞ!などと決意するよりは、どちらかというと発作的にnoteをかきはじめることが多い。今日もノープランでかきはじめている。多分この「ノープランでもかいていい」というのはエッセイの魅力だと思う。
日々の靄をカジュアルに具体化できるのは、結構大きいメリットだと思う。

誰かに聞いてほしいわけでもない、でも誰にも聞かれたくないわけでもない、日々の話を垂れ流すことは、友達が少ない私のような人にとって、大事な行為なのだと思う。

日々の感情をインターネットという底なしの空間に放出させると、心というか身体が軽くなる。誰も見てなくたっていいし、誰か見ていてもいい。でも、見えるところに放つ点、きっと私は見られる可能性があるスリルを楽しんでいる。
インターネットは怖い側面もあるけれど、使い方さえ誤らない限り、自在に使うことができると思う。

エッセイは「事実」に基づく。つまり、事実ではないことをかいてしまうと、その時点でエッセイではなくなる(と思う)。「事実」をかく必要がある時点で、限りなく制限のあるジャンルだ(と思う)。
小説や詩の方が、遥かに自由度が高い。詩は全く詳しくないが、詩が一番自由だと言っている方も知っている。

事実に基づこうと努めると、今の感情に対して向き合わざるを得なくなる。昨日や一昨日、あるいは先週、一か月前に抱いた感情をエッセイにかく機会があるが、時間の経過とともに、感情はだんだん美化されたり風化したりする。どう頑張ってもリアルさが欠けていく。昨日のことはもちろん、私は1時間前のことさえ、正しく文章にできる自信がない。

さらにいうと、感情というのは実際にまだ言葉になっていない抽象的なものだから、それを言葉にすることで、少なからず現実との乖離が生まれる。文字にすればするほど、離れていくこともある。だとしたら私がかいているこれや、この前かいたあれはなんなんだろう。

少なからず私にとってエッセイをかくことは、生きている過程を記録、整理することなのだろう。ちょっとでも現実との乖離をなくせるよう、本当のことをかきたいという気持ちがある。

私はエッセイというジャンルに対して、少々懐疑的に思っている節がある。得体が知れないのだ。

小説であれば、架空の人物や世界を通して、自分の今考えていることがわかる。自分の現在地を知れるというか、間違いなく小説にしかできない体験というのがあると思う。

しかしエッセイはなんだろう。小説のように途轍も無い衝撃を受けたことはない。
かといって嫌いになることは絶対にない。
そもそもエッセイは熱狂とか衝撃とは無縁な気もする。

エッセイはダイレクトに書き手の感情がかいてあったり、ユーモアたっぷりに日々の出来事がかいてあったりする。疲れている時でもさらりと読みたいものを選んで読めるので、親しみやすく、生活に馴染みやすい。そして私はその書き手をちょっとすきになってるなんてことはよくある。小説は疲れている時には絶対に読めない。

自分がエッセイをかくことについては、100%自分のための行為であるのだが、これが誰かに読まれることを考えだすと、途端、全く意味のないものだと思える。
しかし、この世には本当に意味のあることなんて一つでもあっただろうか、と思い直す。そして、どさくさに紛れて、今日も記事の公開までありつけるのであった。

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