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「最近食べたおいしいもの」について考える

この記事を載せているマガジン「37.4°-世界は物語で出来ている」では同志たちがそれぞれ同じお題を元に記事を書いている。今回のお題は「最近食べた一番美味しいもの」だ。

最近食べた美味しいもの、おいしいもの、オイシイモノ・・・・

出てこない。最近外食をしてないということもあるが、まったくもって思い浮かばない。最後に美味しいものを食べたのはいつだっけ?最近食べたまぁまぁ美味しかったもの、くらいならある。しかし、最近食べたものの中で「おいしい!」ものや、わざわざ文字に起こしてまで人様に伝えたいほど衝撃を受けた食べ物はない。

それはなぜか?

歳をとったから。だろう。

正確に言うと、歳をとって、経験を積んだから。あと舌も随分衰えたであろう。

20代くらいまではあった。「おいしい!」と呼べる自分にとって特別なものが。

 ・初めて食べた百貨店で自分で買った季節限定のイチゴ大福。(その後また買いに行ったが売っていなかった。(あんこの甘さに負けない甘さの大きくてみずみずしいイチゴが入っていた。それ以上おいしいイチゴ大福に出会ったことがない)
 ・北海道の山間、周りに何もないとこで宿泊してた時に飲んだ沢の水(甘かった~)
 ・海辺の民宿で出てきた、まだ動いているウニ。(うにうに~・・)
 ・野外で数時間かけて焼いた牛の丸焼きの一口。(塩だけのシンプルなものだったが美味かった)
 ・過去にイタリアの日本領事館でシェフをしていたイタリアン料理屋のシェフの手作り鶏レバー(初めて食べたのがそれだったので鶏レバーとはそういうものだと思っていたが、他で鶏レバーを食べたら臭みがあって不味かった)

この辺りは、美味しいなぁ、と感じていた頃の記憶にあるものたちだ。


自分はパスタが好きなので、昔はよくイタリアン料理のお店に行っていた。するとどうだろう。何軒かは美味しいお店はあった。しかし色々なお店に行けば行くほど、値段の高い安いに関わらず、美味しくないお店が増えていく。いやむしろ「高いのにこのレベルかぁ」なんて思ってしまい、美味しいお店に出会う確率がどんどん落ちて来るのだ。
更には新たに美味しいなどと思うどころか、同じものを食べても「前はもっと美味しかったのになぁ」と思う始末だ。


そう考えると、グルメ評を書いているグルメライターさんは美味しくないお店がどんどん増えていき、食好きにも関わらず1日に3回(もっと食べられても量に限りがある)しか経験できない「食事」の機会を、残念な時間にしなくてはならない酷な仕事だと思う。
昔知人が、「1日3回しか食事の機会はない。1生涯に食べられる食事の回数は決まっている。だからその少ない機会を無駄にしたくはないから、不味いものを食べたくはない」と言っていた人がいた。
その当時は笑い話だったが、食に限らず生涯の時間は限られているから、せっかくなら楽しまなきゃ損だよな、と今は思うようになった。

感動できなくなったのは味だけじゃない。
体感や経験に於いても同じことが言える。

初めて19歳くらいの時に行ったヨーロッパ旅行。ドイツまでの11-12時間ほどのフライトはとても長く感じた。今は短く感じる距離が子供の頃はとても長く感じたのと同じ現象だ。飛行機が着陸する寸前、目下に広がる赤いレンガ屋根の絨毯。今まで見たことのない景色に、見た瞬間胸元から喉の辺りがザワッとし、同時に遠い、違う場所に来たんだという感覚を肌で味わった。
しかしそれから何十回と海外に行っているが、そのフライトの長さや遠い場所に来た、別の場所に来た、という感覚はもう味わうことは出来ない。ただ景色が変わるだけだ。
あの感覚は全く情景の違う南極やアマゾンに行けば感じることが出来るのか?宇宙まで行けば感じることが出来るのか?行ってみないと分からない。

経験の量と感動の度合いは反比例する。

誰かこんな私にお勧めの美味しいものがあれば、是非教えてください。

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