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摂津国衆・塩川氏の誤解を解く・第31回 “九条まつり”予告編


毎度ご無沙汰致しております。
前回の更新は6月27日でしたか…。時が経つのは早いものですねぇ(遠い目)。

因みに“遠い目”をしたままディスプレイ画面を(ピントをディスプレイに合わせて)見る術を身に付けると、「ステレオ写真」を裸眼で実体視出来ますので、塩ゴカ読者の方には超おススメです。(ぼお~っと考え事をすると、ディスプレイ画面が2重に見える事がありますが、あれは「遠い目」をしているからなのです。視線が「並行」なので、右目と左目はそれぞれ「別の場所」を見ているわけです。)
その視線を維持したまま、例えばwikipediaの「名護屋城」に掲載されているステレオ空中写真を眺めると、上手くいけば「高所恐怖症の方がトラウマになりそうな」3D映像が浮かび上がってきます。(名護屋城のステレオ写真は「2つの写真」が並んでいるので、「2重映し」の視線で見ると、「4つの写真」が見える事になります。そのうち、内側の「2つの写真」を上手く脳内で「合体」させる事により、全部で「3つの写真」が並べば、中央の写真が「3D映像」に見えているはずです。)
また、もしお近くの図書館に、私が学生時代にお世話になった「そしえて文庫」のシリーズ「地図の風景」(1980-81、発刊当時は衝撃的でした ! )があれば、冒頭にこの術をマスターする方法が書かれているので是非おすすめしたいところです。この本についてはまたいつかあらためてご紹介したいと思います。

さて、今年令和3年(2021)1~2月は、去年から“宿題”となっていた塩川長満娘(妹)こと「池田元助未亡人」→「一条内基政所」(慈光院)の関連記事を3連発(長い前説編、土御門泰重日記編、近衛信尋日記編)でお送りし、そのまま次回の「西洞院時慶日記編」をもってひとまず“シリーズ慈光院”を小休止するつもりでした。

なお「土御門泰重」や「近衛信尋」の日記に登場する「慈光院」(一条家政所、一条兼遐養母)って、本当に「塩川氏」なの?たまたま同名の別人じゃないの?などと疑うムキも居られるかとは思いますが、どうかご安心感下さい。彼女が紛れもなく「塩川長満の娘」にして故「池田元助」未亡人であった事は「時慶記」のある記事から判明するのです。それはまた、岡山池田家文書の記述とも実に符号しておりまして、もはや疑う余地はありません。

(21,10,23追記 : もうひとつ忘れてました。以前触れましたが、一条家の隣人、近衛信尹の「三藐院記」に、信尹の元に、慈光院と池田元助との子「池田勝吉(しょうきち、元信)」、すなわち「塩川長満の孫」から「鯉」が贈られてくる記事がありましたが、これも、池田元信が一条家で育てられた(岡山、池田勝造奉公書)からにほかならないのです。)

しかしここで「新たな割り込み」が入ってしまい、春からそちら関係の作業に追われてしまって、気がついたら季節はいつの間にかに秋に。(毎度のパターン & 言い訳、何卒御容赦を。また慈光院ゴメン…)

ついでながら「春から秋」と申せば、「一条兼遐」の実名の読みは、通説の「かねとお」ではなく、おそらく「かねはる」が正しいかと思われ(続本朝通鑑巻ニ百三十)、戦後「一条恵観山荘」の鎌倉市移設を指揮された堀口捨己氏(「茶室研究」)や、同じく数寄屋建築研究者の中村昌生氏は「かねはる」を採用しておられました。(中村昌生先生とは、その御晩年に某”空中茶室復元"で一度だけ不思議なご縁がありました。なお一条兼遐も一度、この"空中茶室"を訪問しており、建築デザイナー肌であった兼遐も多大な影響を受けて自分の「山荘」に反映させたと思われます。)

また「兼遐」はのちに「昭良(あきよし)」という、あたかも故「二条昭実」からの偏諱を思わせるような不思議な改名をしますが、これはおそらく「鷹司信房」の肝煎り(プロデュース)による、「二条昭実」の猶子「康道」(「九条幸家」の実子)に、「一条兼遐」の実の妹(つまり「近衛前子」の子)「貞子内親王」を嫁がせたという、いわば「一条家、近衛家、二条家、九条家、そして鷹司家の、血縁も含めた結束・融和」という、中世以来の摂関家間に存在していた「長い確執」の解消をもくろんだムードに連動しての「改名」であったと個人的には思っております。そして同時にこれは、

一条兼はる  →  一条あき良  (春 ➡ 秋) 

という、彼自身による”人生を「季節」に例えた洒落”も兼ねていたのだろう、とも想像しております。
その証拠にというか、晩年には「冬」と号したり(自虐センス抜群)、気に入っていた方の子(醍醐家初代)にも「冬基」と命名("冬"は一条家ではしばしば用いられますが)しています………(遠い目)→突然ですが、ここでステレオ実体視スタンバイ ! !

( ↓ 鎌倉に移設される前の昭和20年代の醍醐家西賀茂邸)

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↑ どうかそのままの姿勢で、目の前の画像のことを忘れて「ぼおっ~と考え事にふけってみて」下さい。自然に「遠い目」となり、2つの赤い点が「近づいてきた」らチャンスです。(よくトイレや風呂のタイル壁、あるいはジュースの自動販売機の商品見本を「ぼおっ~と」眺めていて「半透明状?の不思議な映像」に見えた経験はありませんか?。要するにアレをわざとやるわけです

「近づいて来た2つの赤い点」が中央で1点に重なった時、実体視(立体視)が出来ているはずです。(この時赤い点は左右にも見えるので全部で3つになっています)


え~と何の話でしたっけ…、あっ、その「新たな割り込み」のことですが(汗)

「割り込み」とは、これも以前チラッと触れたのですが、私がまだ接していなかった「塩川長満の書状」というものがありました。
その書状(二通)の存在自体は、どうやらとある”公的歴史研究機関”が20年以上前に公刊した史料集の冒頭解説において公表されていたようですが、私はうかつにも今年(2021)春になって初めてそれを知った次第でして(汗)正直焦りました。

その書状は、ある理由から全体がよく見られない状態になっており、加えて昨今の緊急事態により、その史料館へのアクセス自体に制限があったものの、取り敢えずは「閲覧申請」という形で五月の連休明けにメールと電話で問い合わせてみました。(しかも電話で冒頭からその研究機関の漢字名称を読み間違えるという超恥ずかしさよ…)

「門前払いされるかなぁ?(門外漢がバレたので)」とか「どうせダメもとで」くらいでの思いでの申請でしたが、なんと20数年前に上記解説文を執筆された担当者の方と直接電話でお話することが出来、その方も非常に熱心で、実は前々から上記の塩川長満書状を含む一連の史料を公開できる形にしたかったとの由。つまり、おこがましくも私の「申請」がまさに「渡りに舟」となって、夏にはその書状を含む十数枚の文書がネット公開される運びとなりました(きゃー!!)。⬅よって"シリーズ慈光院"が後回しされるハメに…

私は非常に嬉しかった反面、焦りも感じました。
やはりこのあたり“歴史学の素人のボロが出る”というか、書状は中級くらい(?)の“くずし字”で書かれており、特に長文でもありませんが、私にはパッと見、3~4分の1も読めないなぁ(滝の汗)という感じでした。

(追記 :  正確に申せば、塩川長満の書状は「短文」と「長文」の二通があり、公開前のメールでのやり取りの段階で、上記担当者の方が「ざっとこんな内容です」と、「短文」のほぼ全文、及び「長文」のサワリの釈文をメールで送っていただいていたので、解読すべき残りは「長文」書状の大半だったというわけでした。)

“くずし字”は、当連載においては、岡山の池田文庫所蔵の塩川家関連の「家譜類」(奉公書)等の翻刻、ご紹介はしていますが、これは比較的“崩し度”の低いものでした。

池田文庫の「一條様御書」(「塩川八右衛門キリシタン訴人事件」に対する池田光政宛の一条昭良書状)に至っては、解読に数十時間粘った挙げ句、半分位でギブアップ。結局、柏木輝久氏の「大坂の陣豊臣方人物事典」の「参考文献」に導かれて、再度岡山市まで出向き、閲覧した尾山茂樹氏の「備前キリシタン史」の解読案に頼ったという次第でした。

しかし今回は「閲覧申請が通って公開された」手前もあり(汗の滝)、やはり何といっても「是非内容が知りたい!」という当然の思いがあり、今年の7月、8月はほぼ、この「解読作業の長ーいトンネル」内に籠っておりました。
大津の長等商店街の古本屋で十数年前に購入した「古文書解読字典」と、東大史料編纂所サイトの「データベース」、図書館で見つけた「草字苑」(1976、独特の検索アプローチ方法が素晴らしい)を傍らに。
それにしても「一條様御書」の時もそうでしたが、ホント、ココロ病みそうでしたよ(何?、既に病んでるから同じやて?)。まだしも「ポルトガル語」の方がナントカ取っ掛かりが掴めるというか…

ともあれ1か月半後、ひとまず釈文と読み下し文を「完成」(でっち上げ??)させたものの、やはり素人の解読案では極めて危険と判断し(これは極めて賢明な判断であった…)、最近お世話になっている「とある公的機関」の方に相談し、まだ決定前ながら、複数の方のご協力とチェックのもと、その公的機関において公表させていただく見通しとなりました。早速そちらから、ある文献の専門家の方に拙案をチェック頂くと、文字数にして「○○文字ほど修正される程度」で済みました(汗)。ここでは超恥ずかしくて書けない誤読もありまして、しかしまア、XX点/100くらいはイケたかな…(ともあれ、あのまま発表してたらヤバかった…)。

冗談はさておき、「一文字間違っても歴史が大きく変わってしまう」文脈をも含む上、当然ながら解釈次第で意味も変わるので、あらためて恐ろしい世界である事を痛感致しました

ともあれ、この塩川長満の書状の翻刻と若干の考察、遠からず、ある場所において公表する見通しです。

誰もが知っている「歴史的大事件」に、またもや塩川長満が当初から関わってた事が確実となりました。

しかしこの事象は決して"初耳"ではなく、「高代寺日記」にその一部や関連記事が記述されていたので、既に当連載においてもその「予測記事」を書いておりました。それがまたもや確実となりそうです。

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(補足:「高代寺日記・下巻」について)
江戸時代前期に編纂された「高代寺日記・下巻(塩川家臣日記)」(国立公文書館蔵)は、日記というよりは編纂された「年代記」ですが、様々な経緯から、歴史学の論考等において活用される事が殆どありません

(2022.0203 追記 : 高代寺日記は現在「国立公文書館」のサイトで閲覧出来ます(https://www.digital.archives.go.jp/)。トップページから「高代寺日記」で検索 ➡ ヒットする3件のうち最後の「高代寺日記2」が、戦国時代~江戸時代前期を記述した「下巻 塩川家臣日記」です。)

ともあれ「高代寺日記」は”玉石混交”の史料であり、その価値(出典、信憑性)は、「一項目」「一項目」(各々数文字~数十文字)毎に違います。

また、たとえ記された事象が史実であっても、編者による「考証」や「年次比定」が明らかに間違っている」記事などもあります。

「俗書」からの引用もありますが、「失われた当事者の日記」から引用したらしい記事や、明らかに「多田神社文書」や「多田院御家人の家文書」(あるいはそれらの「案文」)に取材して記された記事もあります。

「摂津晴門」関連や根来衆の寺内町「河内・大ケ塚」に関する記事など、他に見られないものは特に(捏造記事ではないかと?)警戒されて無視される傾向がありますが、こういった記事はむしろ「重要度の高い史料となる可能性」を一応秘めている面もあるかと、個人的に思っています。

というのは、塩川家滅亡後の中国「池田家」への再仕官や、摂関家(特に一条家)との関係「細川晴国」との繋がりや「晴国の感状」など、あらかじめ「高代寺日記」から知られていた内容が、後に「史実」として明らかになったり、日記が典拠とした「史料」が発見された事象も少なくないからです。(今回の「塩川長満書状」もまさにそれでした。なお編者は「細川晴国」の事をよく知らず、誤って「永禄元年」の条(晴国は天文五年没)に晴国感状の記事を挿入しています。)

怪しい内容を「つかまされた」ような記事もありますが、編者自身による「恣意、選択、思い違い」はあっても「創作性」「捏造性」は極めて低いと考えられます。

「大永七年」条の記事等は特に酷く、「その部分だけを見る」と確かに「デタラメの創作話」にしか見えないのですが、「高代寺日記(下巻)」全体を通読してみると、その100年後を生きた編者が、断片的な玉石混交の資料を前に、なんとか「通史」を組み立てようとした結果の「失敗例」、「筆の勇み足」であることが類推されます。

当然ながら、編者が「御家再興」を念頭に入れて塩川氏の「功績」の描写を「優先した」傾向は感じ取られるものの、だからと言って「日記(下巻)」全体においては、決して「安易な作り話」に走っていないからです。

年次考証においても、複数の可能性を提示している部分もあり、編者自身がそれなりに「歴史学的アプローチ」を試みていることが判ります。

また、同時代の編纂史料「当代記」と幾分似ていますが、「当代記」内に時折見られる「スキャンダル好き」「オカルト好き」といった要素がなく、要するに「高代寺日記」編者の方が相対的に”生真面目で堅い人物像”の印象を受けます。

ともあれ、常に「記事の一項目ごと」に警戒を怠らず史料批判を厳密に行えば、良質の史実を抽出することが可能と思われますが、当然ながらそれには少なからぬ「労力」が伴います。

記事の「アラ」を見つけて「高代寺日記(下巻)」自体を「全否定」する事は実に簡単で、これまで「高代寺日記は信用出来ない」というフレーズだけが、あたかも判で押したが如く幾度も繰り返されてきました。

記事を安易に鵜呑みすることはもちろん「怠慢」ですが、同時に「高代寺日記は信憑性が低い」などと「一括全否定」することもまた、研究者としては「怠慢」にほかなりません。

あえて「一括評価」するのであれば、私に同記を最初にご教示頂いた「高橋成計」氏が25年前に言われた「高代寺日記(下巻)は、ざっと7割方は信用出来るかな」という意見こそふさわしいかと思われます。この印象はこの四半世紀、全く変わりません。

「高代寺日記」に関する研究書物としては、故「藤原正義」氏(北九州大学教授、国文学)による「宗祇序説」(1984、風間書房)があり、地元では川西市中央図書館に蔵書があります。
また、「高代寺日記」(内閣文庫の複写)は豊能町立図書館においても閲覧が出来ます

なお近年、一般には閲覧自体が非常に困難であった「高代寺日記」を、自費出版というかたちで手軽に入手可能にされた「中西顕三」氏の功績は小さくないと思うのですが、中西氏による塩川氏の歴史解釈そのものや、系図作成には、かなり独特の引用し難いものがあり、研究者の中にはかえって「高代寺日記」そのものに対する警戒心を強めてしまった向きもあるのではないかと思われます。

最後になりましたが、昨年(2020)出版された馬部隆弘氏の「椿井文書」(中公新書)を機に、現在ちょっとした「儀文書ブーム」のムードがあり、ひょっとしたら「高代寺日記」に対しても「儀文書では?」という警戒心が喚起されているのではないかとやや危惧しております。

どうやら「椿井文書」には所々「史実」をちりばめるという「巧妙さ」もあるらしく、「高代寺日記」もあるいは"同類視"されてしまうのではないかと。

特に文献の専門家の方々にとっては、論考において「儀文書を引用した」とあれば、キャリア的にも大ダメージとなるので多少は仕方ないのかも知れません。

なお「馬部隆弘」氏のお名前が出ましたので、申し添えておきますと、今回の「塩川長満書状」の解釈について、馬部氏が2007年、及び2009年に出された2つの論考に依るところが非常に大でした。「塩川長満」ではなく、彼が書状を宛てた「人物」の動向に関して。
特に2009年の論考における「ある人物比定」がなければ、今回の書状の内容も多くは「謎」を残したままだったことでしょう。

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ともあれ乞うご期待。
(つづく。文責:中島康隆 20210930)


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