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張碧勇の憂鬱(第1話)

その日、北京は曇り空だった。天候のせいなのかスモッグのせいなのかはよくわからなかった。
父は専属運転手つきの紅旗(ホンチー)で僕を空港まで送ってくれた。
党の第三書記である父は四十を越えて出来た一人息子の僕を溺愛している。
家には住み込みの手伝いがいるのにも関わらず、父は毎日昼には帰宅して僕の昼ご飯を作った。下放で青春期を過ごした福建省で父は料理を身につけた。
月曜朝の高速公路は渋滞していた。一向に進まない車中で僕はさっきから目に映る窓外の風景が一生の見納めになるかもしれないと考えている。祖国を捨てる覚悟はもう出来ている。今、自分が向かおうとしている先の日本で何かを掴むことが出来たら僕は生涯二度とこの国には戻らない。自由や成功を手にして世界を舞台に生きていきたいと僕は願っていた。
隣りのシートに深々と座っている父はそのことを知らない。僕の憂鬱を彼は微塵も知らない。
手荷物検査場の入り口で父は僕をハグしてしばらくそのまま動かなかった。父が泣いているのがわかった。小碧(シャオビー)と父は僕の名前を何度か嗚咽するように繰り返した。僕も泣きそうになった。
成田までの時間はあっという間だった。機内食は巻き寿司とお稲荷さんだった。
成田空港の入国検査の列には色が溢れていた。欧米からの観光客や帰国した日本人は皆、カラフルな色合いのファッションで身を包んでいた。
僕は灰色のコートを脱ぎ、Dsquared2のセットアップのスウェット姿になった。ここではもう周囲の目を気にする必要はない。自分は解放されたと思った。
 
東京で僕は足立区に住む遠戚の家で暮らし、一年間日本語学校に通った。その間、TOEIC試験を二回受けて志望大学の入試要件である480点をクリアした。
そうして一年後、中央大学法学部の留学生試験に合格した僕は親戚の家を出て、生協で探した国立(くにたち)のアパートに引っ越した。
父はバイトをするなと僕に言った。その時間があれば勉強しろと言って父はアパートの家賃も含めて毎月三十万円ずつ送金してきた。
僕は父の言いつけを守り真面目に勉強した。日本人の同級生たちが遊んだりバイトをしたりしている間、僕はずっと勉強した。三年生になるまで新宿二丁目に足を踏み入れたこともなかったし、iPhoneにGrindrだとか9momnstersみたいなゲイアプリも入れなかった。時々、マルジェラとかDsquared2の服や靴は買ったけれど。
父に僕がゲイだと打ち明けたらきっと泣くだろう。一人っ子の僕がまだ結婚もしていないというのに父はもう孫の顔が見られる日を心待ちにしている。
思えばずっと僕は父を喜ばせるために生きてきたような気がする。そうして僕は学部の四年で司法試験に合格を果たすことが出来た。合格を知らせた時、父は微信(WeChat)のビデオ通話の画面の向こうで涙ぐんでいた。
僕を生んだ母は僕が三歳の時に亡くなったので今僕が母と呼んでいる人は実の母ではない。僕とその人との関係は正直あまりうまく行っていない。元女優である彼女はまだ若くきれいだが人として浅ましいと僕は感じている。浅ましいという最近覚えた日本語が僕はとても気に入っている。「浅的(チェンダ)」と中国語で言うよりも語感がもっと生々しくリアルな感じがする。
父は司法試験に合格した僕に、しかし司法修習よりは大学卒業を優先させろと言った。日本の法曹資格を持つことを父はあまり重要視しなかった。おそらく父は、僕が日本で弁護士にでもなって永遠に祖国へとは戻らない将来を危惧しているのだと思う。
確かに父の言う通り、いずれ日本を離れ中国へ戻るのであれば、日本の法曹資格取得はあまり意味を持たない。ちなみに司法修習は司法試験に合格したその年に申し込まなければならないと定められているものではないのでいつでもその気になった時に申し込めばいい。
今の僕にはまだ自分の将来が見えていない。父の望み通り中国に帰って一生を終えるか、あるいは父に背いてこのまま日本やどこか他の国で暮らす人生を選ぶのか。決心がつかないまま宙ぶらりんな僕はとりあえず大学卒業までの半年間を遊び暮らすことに決めた。この何年か必死に頑張った自分自身へのご褒美だと思った。
僕が司法試験にかまけている間に僕の年次の大卒生の就職試験シーズンは既に終了していたし、しばらくバイトでもしながらふらふらして来年の就職試験に向けて準備をしようかと考えた。もう少し日本でいろいろな経験を積み、自分のスキルを上げて人脈を広げたいなどと適当なことを父には言った。
毎週末、新宿二丁目のバーやクラブに飲みに出て朝まで遊んだ。ゲイアプリで知り合う誰彼とスポーツのようにセックスをした。気がつくと周りにゲイの知り合いが増えていた。二丁目に出ると街のそこここで顔見知りに遭遇し、声をかけられるようになった。
 
そんなある日、僕は翔くんと出会った。

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