見出し画像

歴史を踏みしめる【ムカサリ絵馬】その二 黒鳥観音堂

「黒鳥さんねえ。あそこ何にもないですよ」

 地域に精通したドライバーさんでもそう思うらしい。ムカサリ絵馬について調べてみると、見学可能な場所はいくつか候補が浮かび上がる。列挙してみよう。まず、これから向かう黒鳥観音堂。そして、天童市の若松寺。「山寺」の愛称で有名な山形市にある立石寺の奥の院。他にもあるが、以上の三箇所が、調べれば見つけやすい場所だろう。
 実は、訪問前の五月と六月半ばに、取材が可能かどうかの確認をしようと思った私は、黒鳥観音堂に電話を掛けた。しかしながら、五月に電話を掛けたときは、ご不在であった。しばらく日を空けてから、再び電話を掛けると、管理をされている女性が電話で対応してくださった。時計の針を戻す。

「すいません、どなたかそちらの歴史やムカサリ絵馬について、詳しい方は当日いらっしゃいますか」

「あー、見学はご自由にできますけれど、私共が常駐しているわけではないので」

「そうですか。午後には若松寺さんにも伺う予定でして。御朱印も集めているのですが」

「それでしたら、若松寺さんはお詳しいですよ。御朱印でしたら、書き置きのものがございますので、私共が居なければお持ち帰り頂けますよ」

 現地でお話を伺えたら、地元の方の生の声を聴いて、リアルな記録を留めることができるので最も良いわけだが、当然、先方には都合がある。常駐されているわけではないのであれば、これ以上、こちらの要望を通すのは難しい。

「では、当日、見学させて頂きます。お忙しいところ、御対応ありがとうございました。失礼いたします」

 とはいえ、このようなやり取りをするだけで意味がある。もし、女性が頭の片隅にでも、この会話を覚えていてくだされば、当日、いらっしゃるかもしれない。電話をせずに、直接、現地へ行くよりもお話を伺えるかもしれない確率が上がる。こうして、当日を迎えた。

 駅から黒鳥観音堂までは、歩けば遠いが、車で行けば十分ほどしか掛からない近距離である。午前中はこちらで時間を過ごして、その後、昼食を取る予定だ。

「実は以前に電話を掛けたことがありまして。ひょっとしたら、どなたかいらっしゃるかもしれないので、見学してきます」

「あーそうなんですね。高い場所にありますからねえ。近くの展望台からの眺めは良いですよ」

 ドライバーの男性と暫し車中トークをする。大好きな日本酒の話、昼食に予定しているラーメンの話などをしていると、あっという間に目的地が見えてきた。御堂は山手にあり、対向車が来たらすれ違うことができない程の細道を登っていく。車の両サイドには木々が生い茂っており、新緑の時季を迎えてしばらく経過した生命の中弛みを微かに感じながら、車は幾度か蛇行を重ねて、やがて高台に到着した。

高台からの眺望。ビニールハウスが見える

「ありがとうございました。また帰りのタクシーは電話して呼ばせてもらって良いですか」

「あ、それならねえ。うちのポケットティッシュ渡すんで、こちらに書かれた番号に掛けてもらえれば」

 タクシーから降りた私は、小雨になってはいたが、止まない雨を凌ぐ為に傘を差した。タクシーは道路の構造上、黒鳥観音堂の正門とは異なる高台の脇道に停まった。ドライバーさんが言うには、ここから境内に繋がる階段が近くにあるとのことで、すぐに見つけた私は足元に気を付けて数段下りた。

釣鐘

 階段の横には、造りはそれほど丈夫ではなさそうだが、年季の入った梵鐘がある。この鐘が撞かれることは年に何度あるのだろう。そんなことを考えながら境内を見渡すと、梵鐘の一段下には「水子供養」と書かれた地蔵が地面に根差すように建っていた。死者婚礼や冥婚は水子供養の一種、その様式の一つと言えるだろう。東北では他にも水子供養で有名な場所はいくつかある。地蔵様を目の前にして立ち止まった私は、改めて今ここに祀られている意味を感じた。

水子地蔵

 ここで、黒鳥観音堂の歴史を概観してみよう。公表されている情報を私なりに纏めてみた。
 黒鳥観音堂は最上三十三観音の第十九番札所である。黒鳥の発祥には二つの説がある。七二三年(養老七年)、当時の大和国は長谷寺に祀られていた十一面観音を勧請し、後に祠を山腹に建てたという説。つまり、御本尊には十一面観音菩薩像が祀られているのだが、これは慈覚大師作といわれる。もう一つは、八七一年、堂の前の愛宕神社と共に、郡司・伴直道が祀ったという説だ。
 享保年間(一七一六~一七三五)の頃、当時の別当であった龍興寺の住職・崇容和尚が観音堂の再建を発願した後に、郡奉行の多賀谷次郎左衛門が工事を指揮して御堂が完成したという。
 初期の御堂は鶴ヶ池、亀ヶ池の上にあったが、火災の後、現在の場所に移したようだ。また、私が下りた境内の石段は、改築の際に蟹沢村(おそらく現在の東根駅西側)の知開坊が作ったとされる。梵鐘には、一六七五年(延宝三年)六月十七日奉納、その後、一八〇二年(享和二年)八月十七日、龍興寺の高寛和尚の時、村の早坂徳兵衛という者が御堂を再建したことが記されていたが、当時の梵鐘は戦時下に供出されてしまい、現在の梵鐘は一九五〇年(昭和二十五年)七月三十一日に再建されたものである。
 観音堂を管理してきた龍興寺は、後に衰退してしまい住職不在となったため、信者が交替で管理することとなった。その後、関係者同士で相談した結果、管理を秀重院に一任することになり、一八二〇年(文政三年)以来、秀重院が別当となり現在に至っているようだ。因みに、秀重院は黒鳥観音堂から北西に凡そ二キロ進んだ場所にある。

 以上が今日に至るまでの経緯なのだが、それでは、早速、御堂の中に入ってみる。いや、待てよ。そういえば、石段を下りた為に正門を潜っていない。礼を尽くし一度正門に出て、一礼してから入り直すことにした。(続く)


参考・引用サイト

第19番 黒鳥|最上三十三観音 (mogami33.com)

東根山 秀重院(曹洞宗)/ 最上三十三観音 第19番 黒鳥観音|観光スポット(東根市・村山地方)|やまがたへの旅 - 山形県の公式観光・旅行情報サイト (yamagatakanko.com)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?