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LanLanRu文学紀行|アルプスの少女ハイジ

ヨハンナ・シュピーリ著

舞台:19世紀後半/スイス・ドイツ

子供心にずいぶんと憧れた。アルプスの山をのびのびと駆け回るハイジの生活。新鮮なヤギのミルクや、暖炉の火にとろりと溶けるチーズフォンデュ。ふかふかの干し草のベットや、山の上のお花畑。
スイスといえばハイジの国で、そこに描かれる暮らしは、素朴ながらも心満ち足りたものに思えて魅力的だった。それは今でも変わらない。けれども大きくなると、スイスの山村の貧しさも、この物語の中に見えてきてしまった。

ハイジはどうしてアルプスの少女になったのか

スイスといって思い出すのは・・・銀行、時計、山、湖。今でこそ金融業や精密機械工業が盛んだが、スイスはかつてはめぼしい産業が無い、貧しい山国だった。もともと国土の大半が山地なので農作物もあまりとれない。だから、生活のために多くの人が外国に出稼ぎに行っていた。

ハイジの物語もここから始まる。そもそもハイジがアルムのおじいさん(おんじ)に預けられたのは、叔母のデーテがドイツのフランクフルトに新しい勤め口を見つけて、ハイジの面倒を見られなくなったからだった。
亡くなった姉の子どもであるハイジを引き取って、母親と一緒に暮らしていたデーテは、母親の死後、ラガーツの温泉地のホテルで部屋係のメイドの仕事をしていたところ、世話をした滞在客の家族に気に入られ、フランクフルトの屋敷で雇いたいと誘われた。しかしそこへは子どもを連れて行くことができないので、山の上の小屋にひとりで暮らしている、「アルムのおんじ」と呼ばれる70歳くらいの老人のところへハイジを無理やり押し付けてしまったのだった。

傭兵だった おじいさん

ハイジが預けられたアルムのおんじは、山の中腹にある山小屋で山羊を飼いながらひっそりと暮らしている。ぶっきらぼうで気難しく、村の人々からも変わり者として扱われているおじいさんだった。
もともとは大きな農家の長男として何不自由なく育ったらしい。ところが若いころ放蕩の限りを尽くして、家族を失い、故郷のドムレシュクを逃げるように離れたという。噂によると、その後ナポリで傭兵になったが、喧嘩で人を殺してしまい、軍隊から脱走したと聞く。
実際のところ、山に引き籠ってしまったおじいさんの過去に何があったのか、気になるところだが、ナポリで傭兵となって、シチリア島の戦争に参加したのは事実のようだ。

ここでも「傭兵」というところに、やはりスイスの貧しさがある。自分の国、スイスのためではなく、他国のために戦うのである。山国の貧しい男たちの唯一稼ぐ手段が、急峻な山で鍛えられた屈強な肉体であり、スイスは長い間、ヨーロッパ各地へ傭兵を送り出してきた歴史があった。「血の輸出」と呼ばれているものだ。
三十年戦争やフランス革命など、スイス傭兵は5世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパ各地の戦争で活躍してきた。ときにはスイス人傭兵同士で、敵・味方となって戦う羽目にもなったようだ。
1874年以降はスイス憲法で傭兵の輸出が禁じられたが、今でも彼らの姿が見られるところがある。ローマの中にあるヴァチカン市国だ。ここでは例外的にスイス衛兵がローマ教皇の警察任務を行っていて、中世さながら、青と黄色のストライプの制服を着て、ヴァチカンを守っているのは有名な話。

「スイス病」と呼ばれたホームシック

脱線したが、話をハイジに戻そう。スイスの国の貧しさについて書いてきたが、それと対比するように描かれるのが、クララの住むフランクフルトだ。この時のフランクフルトはというと、ドイツでも一、二を争う大都市。『ハイジ』の描かれた1880年頃は、ちょうど統一を果たしたドイツ帝国が誕生したばかりの頃で、ビスマルクの政策のもと、産業革命が進んで工業が飛躍的に発展した時期だった。

アルプスでのびのびと暮らしていたのに、いきなり都会に連れられてきたハイジ。それもよりによって産業革命真っ最中のフランクフルトのお屋敷だ。
山に帰りたくて、ホームシックにかかってしまうのも無理はない。
つい最近まで知らなかったが、実はこの「ホームシック」も、かつてはスイス特有の病気だと考えられていたようだ。出稼ぎのスイス人に、熱や食欲不振、呼吸困難などで体調を崩し、ついには命さえ落としてしまうという不思議な病気にかかる者が多く現れたので、「スイス病」と呼ばれていたという。治療法はなく、ただ故郷のスイスの山に帰ることでしか治せない。クララのお医者様が、ホームシックにかかったハイジに「いますぐに、ふるさとの山国の空気の中につれもどすこと」と処方したのは、当時としても適切な処置だったのである。

さいごに

書いていたら、またアニメを見たくなってきてしまった。知らなかったが、2024年の今年はちょうど「ハイジ」のアニメの放映50周年なのだそうだ。50年たった今でも古びないどころか、「家庭教師のトライ」はじめ、今でも立派にCMコンテンツとして成立しているのですごい。ただ一つ困ることは、このアニメを見ると「ハイジ」をなんとなく知った気になって、なかなか原作を読む気にならないことだ。
原作の方は、読んでみるともう少し大人向けで宗教色も強い。
ハイジやクララの成長の物語であり、同時にアルムのおんじや、医師クラッセン、ペーターのおばあさんの救いの物語でもある。
多分、「生活」を知った’大人’になってからの方が読み取れることも多いだろう。昔は身勝手にしか思えなかったデーテおばさんや、厳しい規律屋のロッテンマイヤーさんにしても、今では少し共感できるような気がするのだ。そして、彼らの気持ちがわかるようになればなるほど、尚更ハイジの素直さや純粋さが輝いて見えてくるのである。

『アルプスの少女ハイジ』関連作品

・『黒い兄弟』(リザ・テツナー著)


〈参考文献〉
・ちばかおり、川島隆 著『図説アルプスの少女ハイジ『ハイジ』でよみとく一九世紀スイス』(河出書房新社, 2013)


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