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LanLanRu文学紀行|終戦日記一九四五

エーリヒ・ケストナー著

舞台:1945年 / ドイツ

『飛ぶ教室』や『エーミールと探偵たち』で知られるケストナーの終戦日記。1945年の2月-7月にかけて、ケストナー本人が見聞きしたことのメモをまとめたもの。
たった半年の記録だが、ドイツ国民にとっては激動の数か月だった。この間にナチスの第三帝国は崩壊。無条件降伏をしたので、ドイツは四つの地域に分割されて、連合軍の管理下に置かれるようになった。
ケストナーの終戦日記は、第三帝国末期から終戦直後にかけての時代の狂気を皮肉たっぷり、ユーモアたっぷりに描き出している。

『終戦日記一九四五』より、抜粋

ケストナーは、一人のドイツ市民として、また反ナチの作家の立場から、1945年を記録した。気になった部分を抜き出してみよう。

ハーフェル川畔の田舎家で、みんなで笑い、たらふく食べる。赤軍の戦車がフランクフルトとキュストリンのあいだ、つまりオーダー川まで達しているというのに。みんなでシャンパンを飲み、踊り明かす。きのうは一千二百機の爆撃機が爆弾を落とし、そのあいだシャルロッテンブルク区やヴィルマースドルフ区の地下に籠っていたというのに。みんなで輸入タバコを吸ってポーカーに興じる。周囲では東部から着のみ着のまま逃げてきた人たちが行列を作っているというのに。
(中略)
みんなでごちそうを食べ、笑い、踊り、ポーカーをし、いちゃつき、変装し、正体を明かす。船が沈むことを知りつつ。幻想を抱く者などひとりもいない。次の大波で船の上から流されるだろう。だれも同情心など持ちあわせていない。溺れる者が助けを求めている?

『終戦日記一九四五』p21-23

毎日一万機から一万五千機がドイツに爆弾を投下し、わたしたちにはなすすべもない。まるで食肉にされる牛の気分でじっとしてるしかないのかと、途方に暮れてしまう。

『終戦日記一九四五』p48

いまは昼間の二時だ。朝の十時から、四、五千機がドイツ上空にいる。迎撃が皆無なので、戦闘機編隊も低空飛行で鉄道に向けて機銃掃射した。

『終戦日記一九四五』p 58

終戦の日にケストナーが目撃したこと。
灯火管制の即時解除。「何年も目にしなかった家の明かりは数百万のクリスマスツリーよりも美しく思われた。」オーストリアに戻ったチロルで、一晩のうちに取り替えられた旗。「ヒトラーの旗から鉤十字の部分を切り取り、白いシーツを断ち切って、農婦たちはミシンで赤と白の布をきれいに縫い合わせていた。」ヒトラーの肖像画が取り外されて、色濃い四角形が残った壁。「ヒトラーの肖像写真がどれだけ大きかったかわかるというもの。」鏡の前に立ち、総統ひげを鼻の下から削ぎ落とす男たち。兵士たちは軍服をリフォームするので、仕立て屋の女将は大忙しだった。

戦勝国に対するいらだちも見える。

わたしたちのところで死刑執行人が大手を振って歩いていたとき、ヒトラーと手を結んだのはだれだ。わたしたちではなかった。政教条約はだれが締結したのか。調印された通商条約も数々あった。祝賀会に使節を送り、ベルリン・オリンピックに選手を派遣したのはどこだ。犠牲者ではなく、犯罪者と握手したのはいったいだれだ。わたしたちではないぞ!偽善者諸君!
(中略)
わたしたちに暗殺する能力がないといって非難するのか。わたしたちの中のもっともすぐれた人たちを、言語道断な大量殺戮者の中のアマチュア殺人者だと言うのか。それはある意味、正しい。だがわたしたちに向かって最初の石をふりあげる権利はあなた方にはない!石はあなた方の手には属さない。それがどこに属するか知らないのか。その石は歴史博物館でガラスごしに陳列されるものだ。ドイツ人によって殺されたドイツ人の数を示す、きれいに描かれた数字の横に。

『終戦日記一九四五』p 198-199

第三帝国崩壊後の空白期間があったこともわかる。

無人地帯があるように、無人期間がある。「もはやない」から「まだない」までのあいだに広がっている。わたしたちはそのあいだで無為に過ごしている。かつて通用したことが、もはや無効で、これから通用することが、まだ無効な期間だ。ただ唯一有効なものの名は不可抗力と言う。

『終戦日記一九四五』p 224

夏だというのに、駅と列車、郵便配達と郵便局、電報と電話はいまだに休眠中だ。村や町は孤島と同じで、互いに状況がわからない。村や町は生活の拠点だが、そのあいだにはなにもない。点と点を結ぶ線が欠けている。もしラジオがなかったら、月世界に生きているといっても信じてもらえそうだ。

『終戦日記一九四五』p 269

そしてこの本の最後の言葉。

「一九四五年を銘記せよ。」


ケストナーについて
戦争中、ケストナーはナチス政権下のドイツで「好ましからざる作家」として、執筆を禁じられ、著作は焚書の憂き目にあっていた。この時期、多くの知人が亡命していったが、ケストナーはあえてドイツにとどまり、時代の末路を見届けることを選んだ。日記を書いていた大戦末期は、崩壊寸前のベルリンにいたが、映画会社の撮影班を隠れ蓑にしてチロルのマイヤーホーフェンに疎開し、戦後は復興の兆しが見えはじめたミュンヘンへと移住して、終生をそこで過ごした。

関連作品

■ケストナーについて書かれた著作
・『ケストナー :  ナチスに抵抗し続けた作家』(クラウス・コルドン作)

■ドイツの終戦の様子を描いた作品
・『ベルリン1945 はじめての春』(クラウス・コルドン作)
・「ヒトラー 最期の12日間」(ドイツ映画,2004年)


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