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ジョーカーを生まない社会

このタイトルにある「ジョーカー」は、バットマンに出てくるジョーカーを指す。

昔映画の「JORKER」を観に行った時、真っ先に抱いた感想は「JORKER生む環境の一部にならないように気をつけよう」であった。

映画を観たことがない人のために簡単に説明すると、バットマンに出てくる悪役であるジョーカーがいかにして生まれたか?という悪役のオリジンを描いたストーリーである。

その意識が薄れかけてきてしまっているので、いまいちど自分に警鐘を鳴らす意味でもこれを書いておきたい。

わたしの会社に、他部署ではあるが自分の息子ほど歳の離れた上司から日々ため口で詰められているおじさんがいる。役職も一番下の扱いのまま定年を延長しているという感じだ。仕事ができるできない以前の問題もあるため自業自得ではあり、私としてもフォローの余地はほぼないと思っている。

だが、彼を見ていると先に触れた「JORKER」を思い出すのである。彼のような人間からJORKERは生まれてしまうのだろうなと思うからだ。

JORKERは最初から悪人ではなかった。ただ、貧困スパイラルに絡め取られた独身のまま歳をとってしまっただけの男である。そんな男が社会から蔑まれ尊厳無く扱われた結果、JORKERという怪物が生まれてしまったわけだ。

このJORKERは、最近の言葉でいうところの「弱者男性」であると強く感じる。
割と最近になって生まれた(もしくは浸透し始めた)概念であり、定義は曖昧ではあるものの、インターネット上の意見から「低収入・コミュニケーション能力の無さ・頭の悪さ・容姿の悪さ・パートナーがいない」というような要素を満たす男性を指すと思われる。

ちなみに、わたしは弱者男性という表現があまり好きではないが単語ひとつで特徴を端的に表せるので今回は使用する。

働いていると嫌でもわかるが、弱者男性は割といる。少し見渡せばいくらでもいるのだ。ここでその周り全員が彼らを見下し、蔑み、疎んだらそれはJORKERを生む社会の一端を担ってしまうことになるのではないか。と危機感を抱くわけである。

では、JORKERを生まないために周りの人間が極端に能力が低くかつ伸び代のない人間に全てを合わせ気を遣う社会こそが正しいのか?と問われるとそれも違う気がする。

そもそも、人間の社会活動の基本はwin-winでありgive&takeであると私は考える。
その関係が彼らとは成立しえない。

何かを与える代わりに何かを得る。自分は相手に対して何かしらのメリットを提示する必要がある。それは仕事ができるでも、話が面白いでも、気が利くでも美味しいお店を知ってるでもイケメン美女でもなんでもいいわけである。なんなら、「ただ気が合う」「趣味が合う」だってメリットになりうる。そのメリットがひとつたりとも、何百人何千人いるどの他者にも提示できないなら、メリットデメリット関係なく自分を受け入れ保護してくれるところにいくしかないわけである。

しかしそういった保護も受けず、この社会で他者と関わり合うことを選んだ彼らとコミュニケーションをとるにあたり私たちはどうしたらよいのだろうか。

たしかに、人を意図的に傷つけたり尊厳を奪ってはいけないし暴力も論外だ。しかしそこまでいかずとも、親子ほど歳の離れた上司からの突き刺すような言葉はきっと彼の自尊心を抉っていく。しかし、それも自業自得的な部分が大半のため、わたし含め周りの気持ちとしてはその上司にやや肩入れしてしまう。

ここにその葛藤が発生するわけである。

自分がJORKERにならないためにできることはたくさんある。
しかし他者をJORKERにしないためにできることというのは、そういった意味で実はとても難しい。

彼ら自身が自分や社会にとってメリットになりえないのに自分たちのリソースを割き続け、彼らに与え続けなければならないからだ。彼らからは何も返ってこないのに。そしてそれができるほど余裕のある人間や組織というのはいったいどれだけあるのだろうか。

わたしは、こうして自戒し努力はするが強くその意識を持たないとかなり厳しい。もはやボランティアや介護に近い意識を持たないと無理だろう。

JORKERにならないことと同様に、JORKERを生まない社会の一因であることもまた難しいのだ。

誰かが手を差し伸べていれば、笑いかけていれば、尊重していれば、この男はJORKERにならなかったのかもしれない。

現実的には難しい部分ももちろんあるが、わたしも手を差し伸べられるだけの強さを持っていたいと願う。


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