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反差別運動でマイノリティ当事者に「寄り添う」ことのデメリット、「修行僧左翼」問題、反差別規範、Zainichi横断幕。

登川琢人です。
今日は2021年12月4日土曜日です。

以下は、わたしのはてなブログで2021年5月13日に書いた記事です。

この頃、在日コリアンの差別反対のカウンターが性自認至上主義に染まっていることに気づいて驚愕しました。

女性達、特に同志の藤島月光さんに学んで性自認至上主義運動が女性迫害運動だと理解したが、この頃はまだ気づいていない。

「マイノリティ」に過度に寄り添うと人権がわからなくなるという記事を書く予定ですが、前説としてnoteに転載します。
マイノリティ主義つまり当事者主義を批判する予定。

気にいらない言葉はあるし、今ならこうは書かないけど、そのままにしておきます。
保守の人が左翼を嫌う理由でもある。

「修行僧左翼」問題とわたしは言っています。
では、どうぞ。

左翼も色々いてノンセクトラディカル系の人達は付き合いもあるし、基本的に好きなんだけどいくつか悪い癖があってね。
 

「マジョリティの特権性をあなたは自覚してない!」


これ言われたら、ああまた悪い癖がでてるなと思って離れたほうがいい。


糾弾癖だから。


あんまり差別をなくすのに最終的には役に立たないのよ、糾弾癖は。


マジョリティの特権性を自覚して、マイノリティに寄り添え、とかね。


つまり、差別は非対称性の権力関係だよね?


だから、やりすぎると、なんと(!)非対称性を強化してしまうんだね。


お互いに自由な個人になれなくなる訳。

差別反対の目的は自由な個人になることだから本末転倒になる。


で、ノンセクトラディカルの人達はそれをわかってない人が多い。

 
だから、しょっちゅう内部で糾弾大会とかやって分裂騒ぎを起こす。
 

私は「修行僧左翼」って言ってるけど。


だから、コイツ、糾弾癖がでたなと思ったら離れるか、ぶん殴ったほうがいい。
 
ぶん殴るって比喩ですけどね。


セクトってのは党派のことね。
共産党とか革マルとか中核派...etc。

で、セクトがお互いに喧嘩すると近親憎悪だからしつこいのよ。殺し合いやりすぎてみなドン引きした。


だから内ゲバセクトを批判して現れた人達がノンセクト。

 
しかし、個人のはずがそういう訳には行かなくなって組織になるんだが、組織じゃないとか強弁したりもするみたいね😂

 
あ、誤解さるたら困るな。
マジョリティが特権性を自覚するのは大事ですよ。


出発点と言ってもいい。

 
だけどね、なんかコイツ気に入らないなという人(わたしみたいな人ね😂)にイチャモンつけたいときに、つかっちゃうのよ、ついね。

 
だから、よく見分けてね。
正しいときもあるから。
言われたらわかるから。

 
たとえば、Zainichi横断幕問題。


あれ論理的には無茶苦茶ですから。
差別語だから使うなというならわかるけどちゃんと論理的に説明できないといけない。


なぜなら言葉は社会的なものだから、説明できずに使うなとか言ってやると言論弾圧になる。

 
でも、修行僧の人達はそうかんがえない。

 
とにかく、当事者の一部でも嫌だと言ってるから当事者の声を聞けの一点張りになる。


正しい部分もあるが、それやると非対称関係がかわらない。


だってマイノリティの言う事なら全て聞いていたら、非対称関係でしょ?

 
支援者的マジョリティとマイノリティだけの関係なら、まあいいかもね。

 
でも、修行僧じゃないと普通の人達は耐えられない関係だね、それは。
誰だって個人の意思があるから。

 
マイノリティのドレイじゃないんだからさ。

 
で、差別って支援者とマイノリティの狭く閉じた関係の外側の問題なのよ。

 
当たり前だよね?

 
で、普通の人達はそんな関係無理だから、でも差別は嫌だという人達は、積極的には差別問題に係わるのをやめようと思ってしまう。

 
薄情と思われたくないから、黙って去ることが多い。

現にZainichi横断幕にかかわって、わたしらを糾弾した人達は反小池の運動はやってないよね。

糾弾マイノリティははじめから街頭に立つつもりはないし。


で、自分達の声を聞けと無理筋を主張していたマイノリティと支援者は主張が通ったら満足はするんだけど、さらに孤立化していることに気づかない。

 
確信犯の差別者は減らず、差別は嫌だけど付き合いきれないとおもう人達が離れて、差別はなくならない。

 
むしろゴリ押ししたことによって反感が増したりする。

だから無理筋とおもったら寄り添っては駄目な訳。

あともう1つ問題があって、梁英聖さんが「レイシズムとは何か」(ちくま新書)でも言われている問題。

 
マイノリティに真理判定を押し付けてしまう問題ですね。

これはわたしも前から思っていた。

 
何が正しいか正しくないかを

「マイノリティが言っているから正しい」

 とやっていると、マジョリティや支援者が自分達の社会規範を作ることをサボることになる


梁さんは日本の反差別運動がマイノリティに寄り添う事を重視し過ぎた結果、反差別規範が欧米の様に作れなかったと言っている。

 
つまり、何が差別か、一般人のマジョリティが判断できない、しなくても良い社会に成る。 

もちろん、差別を止める義務があるなんて考えもしない人達がほとんどですよね。

 
そりゃそうだ、マイノリティの気持ちが判定基準なんだから、マジョリティは差別を判断できなくなる。


 結果、日本は最悪の差別社会になってしまった。


 だから、マイノリティ感情をなんでも聞くのは、あまり効果的ではない。

 
傷ついてる人達に差別の判断を丸投げするのではなく、自分でできなきゃいけない。

むしろ、過剰に寄り添うから差別社会が温存された訳。

 
したがって、我々マジョリティは「マイノリティの声を聞かない悪人」に見えることを恐れてはいけない。

 
寄り添う事を少ししかしないからマイノリティからは冷酷にみえるのよ。

 
でも、そう思われても仕方ない。


日本人として日本社会に反差別規範を打ち立てる義務があるから。


マイノリティに寄り添う優しそうな人は実は優しいんじゃなくて、怠け者で、マイノリティに依存してるって事。


 だから、マジョリティの反差別は敢然として行動しなければ鳴らない。

 
「敢然と」ってのは、自分の規範を信じて他人に、マイノリティにさえどう思われてもやるってこと。

 
間違いは気をつける必要はあるけど、でも敢然としなきゃ。

 
他人の気持ちに判断を任せて生きると、イザというとき、自分で判断できなくなってしまう。


だから

敢然と闘い、敢然と勝利しよう!



 5月19日追記。

100人以上読んでくれたみたい、
Viewはもっと多い。
一緒に考えてくれたら嬉しい☺️

 
Zainichi表記自体はあんまこだわりないです。

 
Min Jin Lee の「PACHINCO」の原文読書会から使ったんだけど、今のみると文脈わかんないよね。

 ツイートしてないし。

 今なら「在日アジア人」にしますね。


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