見出し画像

 小さなカウンターと恩返し

 どの季節の山登りが好きかと問われたら、問いが頭に巡るよりも反射的に「秋」と答える。そのくらい秋の山が好きだ。

 色づく葉々に、朽ちてぱりぱりのカーペットとなった紅葉たち。木々の茂みは徐々に背景を透けさせ、春夏に拝めなかった景色がうかがえるようになる。
Tシャツ短パン軽装備で登る私にとっても、肌身が冷たいくらいがベストシーズンだ。登りで汗ばんでも、稜線に上がるとやがて吹き抜ける冷風に心も身体も清涼感と高揚感に包まれる。

 蚊やヒルがいないのも秋が好きな理由だ。どこぞでリンと存在を知らす鳴き虫に、悠々飛び交うトンボたち。そういえば、いつか誰かがトンボは神様だと言っていた。トンボは捕食される側にとってみれば脅威だが、こと人に対して悪さをしない。我が物顔をするわけでもなく、四枚の羽を持って、自由に自在に自らの意思を持って飛んでいる。

 就農して16年が経った。昔と今で大きく変わったこと、それは、トンボの数が目に見えて減っていることだ。私が就農した当初は、秋にバチバチと歯軋りのような音を立てて無数の茜色のトンボが飛び交っていた。だが今では、ぱらぱらと数えれそうな数匹のトンボが、つがいを求めフラフラと漂う寂しげな姿でしか見かけなくなった。

 いくつかの原因がある。それは農業であり、米作りだ。田植え機と同時に散布する殺虫剤によって、幼虫期のトンボに大きなダメージを与え、結果個体数の減少を招いている。これは研究でも明らかにされている。また、現場感覚として、個体数の減少は、田植え同時の散布機が普及し始めた時期と合致する。

 農業の現場では”お守り”代わりに散布する農薬というものがある。何かが起きてからでは大変だからとりあえず使っておけばいいだろう、と。そのうちの一つが田植え機同時に散布する殺虫剤だ。

 戸頭農場は今年の米作りにおいて、そのお守り(=田植え同時の殺虫剤)を手放した。動虫植物に最小の負荷で農業を行いたい。もし何かが起きれば異変に素早く気づき、しかるべき対処をすればいい。使わなくていいものは、使いたくない。小さなカウンターであり恩返しだ。



 田植えが終わり、苗も立派な姿になってきた6月。溝切り作業のために田んぼに入ると、今まで見たことないくらい多くのヤゴが力強く泳いでいた。他にも、タガメがバタバタと水かきをし、葉に目をやると、がじっがじっと何かの噛み跡も。こんなにもすぐに戻ってきてくれると思わなかった。私たちの行動は些細なことかもしれない、だが、ほんの少しだけ虫たちと距離が縮まった、そんな実感をした。

 水田は半年限りのビオトープだ。この行動を数十年続けていけば、何かが変わるはずだ。 
 

 一ヶ月続いた稲刈りがもうすぐ終わる。好きな秋がやってくる。今年はいつもより多くのトンボに出会えるだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?