「これにて閉店!」


2020年5月22日の日記。


・あまりにも家に籠る日々が続いているせいで、ショッピングしたり美味しいものを食べたり、友達と教授の愚痴を言いながら大学の窓から空を眺めたり、バンド練習のためにスタジオに入ったり、その帰りにご飯を食べたり、サークル仲間や高校の頃の友人と新宿で飲んだり、そのまま適当に朝を迎えたり、そういう日々が酷く懐かしく思えてきてしまった。

・嫌だな。

・バイトをして大学に行っててきとうに遊んで飲んで、みたいな日々は確かに楽しかったけど、思い返す記憶の通り良いものでは決してなかった筈だ。記憶の中の夕景が酷く美しいから、その下の日々さえ美しかったと私たちは錯覚して生きている。

・なつかしくは思う。けど思い出とか昔話とかそういうのではなくて、ただ仕方ないな、と、最近思う。そういうふうに。


・何日か前に、植物が気持ち悪いみたいな話をした。それに加え、ベンヤミンの動物に対する嫌悪感の考察に関する文章を読んでいて思い出した。私は似たような感覚を生きた魚に対しても持つことがある。

・小さい頃から水族館が大好きで、あの薄暗くて美しく幻想的な、けれど学問的でリアリスティックな空間がとてもお気に入りだった。水槽に囲まれているという不思議な感覚と、お土産物売り場にふと出た時の唐突な現実と、水族館というものを構成する全てが好きだ。

・けれどふと水槽に目をやったとき、じっと動かずそのガラスのそばに佇む魚を見ると、全身にゾゾ、と悪寒が走り、今すぐ逃げ出したい気持ちになる。まるでそこがまな板の上であるかのように、にも関わらず自分自身と平行に存在する、よく見れば顔も気持ち悪い、その生物に心からゾッとする。

・テレビでたまに流れる、どこどこの海になにやらが大量発生、みたいなニュースで、画面を埋め尽くす無数の魚の肌が映し出された時には、即座にチャンネルを変えたとしてもしばらくそれに対する嫌悪が全身にまとわりつき、まるでその魚たちが私の体の周りで生きているかのような感覚に陥ることが、それなりに、よくある。その感覚と言ったら、それはまあ、最悪なのだ。

・釣りという行為自体は好きだし、魚料理はもちろん大好物。けれど生きて海を泳ぐ魚に対する嫌悪はなくならない。それでも私は水族館に行く。水族館を楽しむ気持ちが、いつ恐怖と気持ち悪さと嫌悪に変わるのか分からない緊張感を抱えて。自分はそのスリルを求めているのか?否、私の水族館に対する愛が、そうであってはほしくないな、と思いながら、今日も無人島で釣りに明け暮れている。


おわり。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?