「春愁」


2021/2/26日の日記。


・春が嫌いな人、多いと思う。少なくとも私と親しく話すような人の中には。

・花が咲いて、葉が緑色になって、新しいことが始まって、そんな季節の中にあるのに、どこか憂鬱な気分になってしまうそれは、その言葉が古くから存在することに示されているように、決して新しい気付きでもなんでもない。むしろ使い古されたものだ。

・その使い古された気付きの上に今日も自分は居て、この正体も分からぬ憂鬱に人間は何世紀も心を重くしているのかと考えると、全てが愚かで仕方なく思えてくる。

・きっと卒業や入学なんていう、現代社会の中にある通過儀礼そのものや、それに伴うありふれた哀しみや切なさを指すだけではあまりにつまらない。具体的であってはならず、本質的でなくてはならないその憂いは、まるで神の意思から途端に突き落とされるようだ、と、そんなふうに思った。無宗教なので「神」という言葉は戯画的なものにしかならないけど。閑話休題。


・朝、目が覚めると、それまでは肩まで布団を被っていなければならなかったところ、妙にあたたかくて、きっと外に出てしまってもいいのだろうけど、その絶妙な温度感にいつまでも布団から出られなくなる。そんな経験はきっとこの世の誰もが味わったことがあるんだろう。

・そのまとわりつくような、緩慢でかつ忙しないあたたかさの中にいるとき、何をしていても、今の自分がまったく正しくなくて、いろいろなことを間違ってしまったように思えてくる。

・それはこの強制的に我々の歩を進ませようとする、変わらなければならないような意識が常に漂う、この春のせいで、正しい選択などどこにもなかったんだと思わせる。思考を緩い泥の中に沈めて、簡単には浮かび上がらないようにする。

・変わらなければならないことを億劫に思いながらも、変わってしまった自分に怯え、慄き、懐かしむ。春だけは毎年、どこにいても同じ匂いがする。気分を軽やかにも重たくもする匂い。ざわざわとした声の群れとぬるいコンクリートと黄色い花を思い出させる匂い。風が強くて真っ暗で、冬よりも越すのが辛い夜のこと。ただまっすぐに明るい昼の雲のこと。


・それが私にとっての、使い古された春愁だと思う。




おわり



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