「あるいは神饌」


2021年10月3日の日記。


・社会人になって、大学生より「考える」ことが減ったなと思う。明日やらないといけないこと、今日片付けないといけない仕事、期限の決まっている繰り返しの業務、そんなものは大量にあるけれど、逆にそうした物事で脳内が圧迫されて、何かを損ない続けて生きているような気がしてならない。

・きっとみんなそうなんだろうな。くたびれたスーツを着た駅のホームのサラリーマンも、仕事のできるあの上司も、腹の底の見えぬ同期たちも。そんなふうに損った人間たちが営んでいる社会なのだから、現実味のない空想はいつまでたっても、くしゃくしゃに丸められてゴミ箱に積まれるだけなんだろう。


・私の住んでいるアパートの道を挟んだ正面に古びたコインランドリーがあり、その隣には妙齢の女性が1人で住む、それなりに立派な家があった。女性は毎朝、玄関先に立っては、道路際に並べられた鉢植えの世話をするでもなく、ぼんやりと周囲の様子を観察しているようだった。その家の前を通ると、窓からはいつもテレビが放つ極彩色の光と微かな音が漏れてたのを覚えている。

・最近、気が付くとその家は跡形もなく取り壊されていた。きっと新しい、知らない誰かのための家が建とうとしているのだろう、更地となったそこに、毎日少しずつ、着々と基礎が組まれ、整備が進められていく。

・中学生や高校生の頃によく遊んでいた街の、見慣れた古い店舗がいつの間にか空きテナントになっていたのは少し前のことだ。それがついこの間、久しぶりに傍を通ると、そこは白くて清潔な携帯ショップに変わっていた。そんなにスペースがあったのかと疑うくらい、店の中はやけにだだっ広く見えた。

・通っていた大学の、古い棟が取り壊され、新しく作られたごく近代的な様相の校舎にその機能が移されようとしているらしい。迷路みたいなスロープと、支配の行き届かないくらい広い教室。所属していたサークルが学内でライブを行う時は、決まってこの教室に段ボールを組んであり合わせのステージをこしらえたものだった。

・どうしてだか最近、ある程度の年月を生きていれば日常茶飯事としていちいち心も留めないはずの、そんな喪失と創造のサイクルを、とても身近に、切迫感をもって感じている。


・取り壊された家屋のその跡地に雑草や名前も知らない花が揺れているのを見ると、横目に通りすがる自分の肌身に、実に寂しい質感が刻まれる。隣家の外壁や更地の向こう側の低空が露わになり、やけに寒々しい。人間がそこに生きて生活していたという残骸、痕跡、それらがまだ強く記憶にあるからこそ、いっそう寂寞感は際立つのだろう。けれどまだ誰も見たことのない未来などに何かを託す人々は、その寂しさを耽美的な問題として終わらせはしない。

・廃墟。それは衰退と停滞感と、そして更なる破壊への予兆に満たされ、正気を欠いた空間である。投資の対象としての魅力を失い、人間の社会的な営みの外へ放り出されて、循環することもできずただ荒廃してゆくことの、ざらつくような虚しさ。

・けれどそれは同時に、それがそれとして在ったことの痕跡が、何にも覆われずこの世に残り続けるということでもある。私たちは果たして、それに安堵しながら日々を送ってはいないだろうか。破滅的なスピードで循環していく世界の中で、何を信じ、何を大切に思い、何を諦め、何を終わらせるのか。そんなふうに常に焦燥しながら、後ろを振り向きたい衝動を抑え込み、新しく作られていくもののまぶしさに目を細めながらも、何とも言えぬ無力感と陰惨さを内に抱えて生きてはいないだろうか。


・私たちはきっと、そこが伽藍洞のままであってほしいと願っている。投資の対象としての魅力を失い、円環から外れてもなお、否、そうであるからこそ、どうにか時の流れに、更新され続ける世界に見つかってしまわぬようにと祈っている。

・私たちは私たちの手で、確かな意思をもって、未来に何かを、遺さないといけないのだろうか。



おわり


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