「ロマン主義者でいたい」


2020年11月13日の日記


・以前、放課後クライマックスガールズの語彙と知識量について書いた記事で、ホフマンスタール『痴人と死』における言語懐疑的要素について言及した。言及とよべるほどではなく、参考適度に名前を出しただけだった気もするけど。

・それ以降、言葉の持つ強さと愚かさについて考えることが多い。それは必ずしも言語哲学的な論証を行うものではなく、ただなんとなく、感覚的なものがほとんどだけれど。その曖昧だけれども思考の根底にある要素について少し書いておこうかなと思った。


・『痴人と死』の主人公にあたるクラウディオという男は、「接吻」「自然の恵み」といった本来であれば生の実感が、その対象物との接触に伴う感情の表象として得られるべきものに対峙しても、「数多の比喩」を見つけてしまう事で、思考及び言語によって体験から得られる感情の動きが妨げられている。ちなみに、このあたりの話は全て私による個人的解釈なので反論は今のところ受け付けていない。

・これは、多義的に、いっそ曖昧に捉えるべき「接吻」という愛情表現や「自然」とのふれあいを、思考や言語によってある一定の枠に当てはめる事でそれらを形式的に落とし込み、理解の限界を自ら作り上げる行為であるといえる。

・こうしたある種の言語機能の弊害は、ホフマンスタールが持つ言語への懐疑意識が一つの問題として提示された形であるともいえる、というように考えている。


・まあ、稚拙な能書きを垂れるのはこのあたりにしておこう。結局何が言いたいのかをまとめようかな。

・クラウディオはその生活の中で、「大いなる窓」から人々の日常を俯瞰している。これは窓枠を額縁と見做す事で、まっとうに生を実感する事の出来る人々を、絵画的に見下ろしているとも考えられる。調度品や骨董品に囲まれ、形式のみを物事に見出すクラウディオにとって、生きることそれ自体、そして日常を過ごす世界そのもの、これらも実を伴わない形式に過ぎないのではないか、と。


・世界を認識するのはとても難しいなとこの頃、感じる。自分に見えている限りですら。

・クラウディオのようなコミュニケーション不全を忌避して生きるしかないのだろうか。ある人にとっての世界を、私はそのひとの言葉を用いた物語を介してのみ知ることができる。物語とは時に音楽だったり、文章だったりする。言葉で捕捉された、或いは究極的に、言葉に依らない映像や写真だったりする。それらどんな手段を用いても、自分という世界のフィルターを介してしまう以上、その人の感じたままに、限りなく近付くことしかできないけれど。全く同じものを見ることはできない。

・自分の見えている生ですら本質を見出せないのに、他人の世界の実を掴むにはどうしたら良いのだろう。ひとつの答えというか、答えにたどり着く梯子のようなものを最近得た気がする。答えはその人そのものなのかもしれない。

・私には直接見えない、そのひとにとっての世界は、そのひとの、ものごととの距離の測り方でしか存在することができない。

・そうすることしかできない以上、世界とはそのひとであるし、そのひとさえ在ればそれで良いという思考の限定的文法はこのような意味によって説明されるのではないだろうか。

・言葉が発された途端に、真実めいたものは柔い砂糖菓子のようにほどけ、崩れてしまうが、新しく輪郭を作り出すことでかろうじてその体裁を保つ。そのひとが掬ったものや掬えなかったものが、そのひとがなぞろうとした世界が、その優しい響きが大好きで、世界とはそうやって成り立っているのだと、信じたくなった。



おわり


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