「あくまで自分はモラリストみたいな顔をして」

2020/12/23の日記。


・さ〜て、今日も例によって、御多分に漏れず、またぞろ、いつも通り、嫌な話するぞ〜!そうして精神を保っている、という程大層な事ではなく、単に、適当に漏洩させる対象として都合がいいので。

・それにしても、今までの可愛い程度の嫌な話と違って、これは割と重いことを書いているために少しだけ仕舞ってあった記事。なので冒頭の日付も去年のままにしている。せっかく書いたのだし投稿しておくか、というもので、まあ人に見せるために書いているわけじゃないからなんでもいいか。



・人に愛情を伝えるのが苦手、という話。苦手というよりむしろ、しないほうがいいと思ってすらいる。世の中においてそんなはずはないのだけれど。

・あまりにも好きな相手に対して、私が何の遠慮も躊躇もなくその気持ちを伝えてしまうとする。その場合、相手にとっては「自分に好意を抱いている相手がいるのは当たり前のことで、自分はその好意を前提としてどう振舞うか決定することで相手の全てを振り回すことだって可能であって、選択権は自分にあり、多少のことでは相手の好意は失われないのだから、少しばかりの横暴は許される」といった感情を抱きかねない。

・否、そんなことは私の思い込みなのかもしれない。私がそう考えてしまうことを恐れて、責任を他人に押し付けているだけなのかもしれない。否、否、きっとそうなのだろう。

・要は「舐められる」と思ってしまうのだ。好意や愛情はある場面では強さであると同時にどうしようもない弱さであると考えていて、しばしば人の判断力を奪い、人を支配下に置くための材料にされる。そんなに極端な例は稀であっても、どこか愛情を分かりやすく伝え続けることは、自分の弱さを呈示し続けていることと遜色ないと思っている自分がいることは確かである。


・こんなことを改まって考えてしまったのは、きっと久しぶりに父親に会ったせいに他ならないだろう。彼はとっくに私の生活の外にいるというのに、血縁関係とせめてもの情、彼に対して被っている自分のペルソナが完全に切り離させてくれない。

・私が9歳か10歳かそこらの時に家を出ていった父親は、今ではとっくに再婚して、けれども「お前たち以外に自分にとっての子どもはない」という理由で、再婚相手との間に子は持っていないらしい。そういう話を昔、一度だけ聞いた。兄はそれを聞いて少しばかり安心した顔をしていた。或いは私もそうしたかもしれない。けれど、なんて勝手なのだろうとも思った。いっそ全く違う生活を営みながら、私たちの目の前に現れないほうが楽かもしれないのにと。父親にとっても、私たちにとっても。

・久しぶりに会った父親は、最近よく、私と兄がわずか3歳や6歳だったころの夢を見るらしい。時間が止まっているのだ、と思った。彼の中にいる私は、いつだって無邪気で天真爛漫な笑顔を屈託なく父親に見せる3歳の子どもなのだ。世の父親というのは大抵そんなものなのかもしれない。娘の成長をいつまでも受け入れられない。実際を何も見ていないのだから、そんなことは当たり前だ。それを聞いた途端、今ここに父親と同席している22歳になった私の存在がひどく不安定なものであるような気がした。発する言葉も何もかも無意味であるような気が。それは実に深刻な不快感であった。父親が私たちに会おうとするのは、そんな自分の認識をせめて現代に追い付かせようとしているだけに過ぎない。しかしそれは私にとっても同じだった。父親の事を思い返す時、一緒にいる自分はいつも小学校にすら上がっていない小さな姿だった。同じだ。今、家の外に、自分の生活圏外にいる父親に、私は僅かばかりの興味も持てなかった。

・父親のことを決して恨んでいるわけではないし、今の時代、離婚という事象が特別なことであるとも、片親であることを負い目だとも思っていない。むしろ仕方のないことだと、そう思う。けれどその事象が、血縁関係というものを信用しなくなった最も大きな要因であることは疑いようもない。

・思い返せば楽しいことばかりだったような幼少期にも、夜に眠るときには両親の争う声が聞こえてきて、布団の中で丸まりながら、「世の中に存在するらしい離婚というものが、私たちの身にも起こるのかもしれない」「バラバラになって二度と取り戻せなくなってしまうのかもしれない」と怯えていたことを思い出す。そんな思いを泣きながら兄に打ち明けると、兄は懸命に「そんなことないよ」と私のことを励ましながらも、だんだんとその声が涙まじりになってしまっていたことを覚えている。

・私は母親と仲がいいと思っているし、友達のように比較的フランクに何でも話せる間柄であるとも思っている。母親を尊敬しているし、彼女の感性が好きだ。けれど、どこかで壁を一枚隔てているような感覚が常に付きまとう。本当に重要なことを私は一度だって母親に相談したことがないかもしれない。放任主義であったように感じていたし、実際そうだったのだろうが、それは私自身が母親に対して何も言わなかったからなのだろうと思う。父親のことにしたってそうだ。もう10年以上経って、彼女の中で気持ちの整理だってついているはずなのに、私はその話題を未だに禁忌であるかのように避けてしまう。母親との間に深刻な空気が流れるのが耐えられないのだ。常に適度にお道化た、適切な距離感に保たれた空気でないと、私は彼女に対してまともに接する事もできない。

・ただ一度だけ、両親の離婚について「どうして」と言ったことがある。離婚の事実を知らされたその時だ。母親がおよそ初めて見る表情で私と兄を呼び、それを告げた時、先に泣き出したのは兄だったと思う。私の幼い頭はひどく混乱して、その中でただ一言「どうして」と聞いた。どうしてそんなことが私たちの身に起こらないといけないの、というような問いであったようにも、今となっては感じる。

・すると母親は泣きながら「お父さんはもう、お母さんのこと好きじゃなくなっちゃったみたい」と言ったのだ。その言葉は私たち子どもに向けられたものであったが、そこに私たちはいなかった。母親がとても小さく弱い生きものに見えた。家族というのがなんであるのか、幼いながらに何となく、分かった気がした。自分が全てでしかなかった家が、家族が、父親と母親という2人の男女の関係性の延長であるという視点がふいに浮かび、だからその関係が保たれなくなれば、私たちはいとも簡単にバラバラになるのだ、と。それを受け入れ尚も振り回されるしかない、結局は家が全てであるしかない、自分はどうしようもなく子どもなのだと。母親の言葉を聞いてそのイメージへと思い至った時、遣る瀬無さにわんわんと泣いたのを覚えている。

・今思えば、その言葉がある種、私にとってトラウマというか、柔いコンクリートに落とされた刹那の刺激物としてその型を未だ残しているというか、そんなようなものである気もする。もちろんそれが母親なりに必死に選んだ言葉であり、両親の間にあったであろう数えきれないほどの葛藤と衝突と情愛の行方を、子供向けの文章に押し込めようと努めたものだったことは分かっている。

・けれど結果として私は血縁関係や、結婚や交際という概念、ひいては個人の愛情すら信用できなくなってしまった。その場で浸ることは出来る。否、どれほど信じたくてもどうしたって持続しないような気がしてしまうのだ。自分から100%の愛情は呈示しないくせに、相手の感情や立ち回りには厭に臆病で、多少なりとも警戒心と緊張感を常に持っていないと、きっと関係が終わりへ向かうのだと思ってしまう。けれどそうした警戒や緊張は、いとも簡単に救いようのない悲観に変わる。厄介なものを抱えてしまった。或いは誰もがそうなのかもしれない。否、以上のような言葉で語ったこの感情は、どれほどこの世に類似品があふれて居ようとも、私だけのものなのである。



おわり


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