「バロック・エピゴーネン」

2021年5月26日の日記。


・5月25日とか26日って、これは別に共感覚とかじゃないけど何となく、翡翠色のイメージがある。もっと言うなら、翡翠色のカエル、という感じ。さて、卵焼きの端っこが好きという話をします。(???)

・卵焼きに限らず、たいていのものの端が好き。伊達巻、かまぼこ、巻き寿司、ゆでたまご、焼き豚、エトセトラエトセトラ。

・それでも特に顕著なのが卵焼きなので、今回は卵焼きに焦点を絞りたい。そして「なぜ端っこがそんなにも好きなのか」について、いざ人に聞かれないとなかなか考える機会のない問いだと思うので、きちんと考えてみようと思う。


・恐らく世間には「卵焼きの端っこが好き」という人間は決して少なくない数いて、それはもしかするとチョコミントを熱烈に支持しているような人間と同じくらいの数かもしれない。分からないけど。

・きっと冒頭の問いのありふれた答えというのは、「端の方が焼き目がついていて、その香ばしさが美味しいから」とか、「端はふたつしかないから特別感がある」とか、「食感が真ん中の部分とは違って楽しいから」とかいうもので、そうした言い分ももちろん分かる。

・けれどそれらは、自分が卵焼きの端っこに対して抱いている想いの本質ではないように感じる。構成する要素のひとつではあるかもしれないけれど、限りなくその占有率は低い。


・そこで、大きく分けてふたつの理由に見当をつけて言語化を試みた。

・まず最初に、「卵焼きには端がふたつしか存在しない」というレアリティの高さに対する観点へ言及する。「ふたつしか存在しない」という言説は、逆に言えば、つるりと整った真ん中の部分と同様、それは「卵焼き」として卓上に存在しているという前提のものである。しかし例えば回転寿司屋で回ってくる卵の寿司はどうだ。特別な場合を除いて、真ん中のつるりとした部分だけを「商品」として提供するのではなかろうか。つまり端は不要なものとして切り落とされて、場合によっては捨てられてしまう。少なくとも真ん中部分よりはぞんざいに扱われるだろう。

・つまり、卵焼きの端は、「ふたつしかない」どころか「存在しない可能性もある」ものなのである。卵焼きとしてこの世に存在することを許されるか否か、その不安定な境界に彼らは常に立たされる。だから卵焼きの端がきちんと「卵焼き」として食卓に乗る際には、曖昧ながらも存在を許されているという事実の愛おしさに思わず進んで箸を伸ばしてしまうのだ。「この子は私が引き取ります…!」みたいな感情に近い。

・あるいは、もっと簡単に言うと、捨てられてしまうかもしれないかもしれないものを食べるという行為は、泡立て器に残った生クリームをひとり舐めとる背徳感に似ている。

・卵焼きの端っこは、それそのものがつまみ食いの対象としての属性を内包している。ピクニックのためのお弁当に入れる卵焼きを母親が切り分けているときに、物欲しそうにキッチンを覗いた子どもへ仕方なくその端を切り落として与えるようなシーンもあるかもしれない。食卓に存在しないとしても、彼らはただ「卵焼きを食べる」という行為に留まらせないストーリーやエンタメ性を我々に与える。不安定であるからこそ、卵焼きの端っこは、多義的なサブカルチャーとして存在できるのだ。

・以上、理由ひとつめ。


・次。私たちはしばしば、不完全なものに心惹かれることがある。卵焼きの端もそれだ。ととのえられた中央部分よりも、不均衡な端の部分は、不均衡であるという事実それ自体に特有の味わいを感じる。それは具体的な味覚に直結するものではなく、むしろ、具体的な味覚には何ら影響をもたらさないものではあるのだが、舌ではないどこかで感じ取ることのできる、確かに存在する味わいである。

・私は不均衡、不完全といった単語を聞くとどうしてもバロック演劇のことを想ってしまう。16世紀、「ルネサンス」として名高い人文主義演劇がフランス古典主義演劇として完成するまでの間に存在する、未完成で歪んだ真珠。それこそがバロック演劇である。どうにか自由を勝ち取ろうとした人間たちの試行錯誤の果て、泥臭くも美しい悲喜劇。それはあまりにも大きな浪漫だ。私はバロック演劇が西洋演劇史の中でも特に好きな時代の一つなのでちょっとその話をさせてください…。卵焼きの話をしていたような気がするけど…。

・ルネサンスまでは、古代ギリシア・ローマの演劇を最も良い芸術と考え、そのためにそれらを模倣し、原則化し、厳密にそのルールに則ればよい演劇が出来ると信じられ、実現されてきた。しかしこの世には形の整わないものが美しいということが往々にしてあり、それは「不完全」というレッテルに肯定的な光をもたらす。

・バロック演劇の特徴は、上記のように、それまで守られてきたルールからの脱却がひとつにある。想像力は束縛されないことで実に自由な表現を生む。そうしてそれを見事やりきってみせ、鮮烈な一時代を築いた劇作家こそ、他でもないシェイクスピアである。また、この世のすべては演劇的で、私たちは皆、世界という劇場で演じる俳優に過ぎないという「世界劇場論」という思想が多く唱えられた。それに伴い、この世はうつろいやすい仮象に過ぎず、永続するものはなに一つないという「仮象と存在」の二元論に基づいた演劇表現が行われたというのが特徴の二つ目だ。

・不規則で、すなわち自由で、不均衡で、華美で過剰。そこには完全さや節度などない。それが簡単に言ってしまうところのバロック演劇である。

・次第にバロック演劇は、その過剰さを王侯貴族が自身の権威を示すためのスペクタクル劇として利用されていく。それはシェイクスピアのような文学的なセリフ劇ではなく、豪華な衣装を見に纏うプレイ的なパフォーマンス演劇として浸透する。が、ここではそういった内容は割愛し、前に述べた外枠の特徴の記述に留めておく。何てったって卵焼きの話なので…。

・時に自由とは、知性をも凌駕する特質であると考えている。人は知性が最も素晴らしいものだと決めつけることで、自分自身の愚かさに気付くことができない。卵焼きという完全なものを作る過程で、不完全である端は必ず生まれる。不安定で曖昧だけれど、完璧なかたちをした真ん中の部分を知性とするのならば、端っことは確実に自由そのものだろう。そのように卵焼きを二元論的に捉えると、端っこは本体──メイン・プロットでは有り得ない。けれど端っこを食べることで我々はその自由さを確かめることが出来る。そして、そうした過程や思惑、鬩ぎ合いや作用の果てに、卵焼きは我々の食事として有無を言わさず現前するのだ。

・そのようにして私は卵焼きに大好きな古い西洋の演劇を重ね合わせ、展開の過程で生まれる歪みや不均衡としての端っこの存在に肯定的なものを見出そうとしている。こういう日常にこぼれ落ちた小さな、かつ飛躍した思想をこねくり回す趣味を凝縮したのが、私にとっての「卵焼きの端っこが好き」という発言であるのかもしれない。

・思想の強度が増してきてしまった上に風呂敷を広げすぎたのでこのあたりで撤収しよう。念のため言っておくと、決してアンチ真ん中というわけではなく、みんなみんなどの部分もおいしいので大好きなんだけど、端っこには比較的特別な、こんな想いを持っているよ、という、お話でした。

卵焼き、おいしいね…。



おわり

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