最近の記事

2024/10/15

反省における言語とコミュニケーションにおける言語って同じガワをしてるだけでまったく別の法則で動いているように感じられる。

    • 2024/10/11

      最近ちょっと自分が明らかに一皮むけた感じがあって、具体的に言うと大胆というかふてぶてしくなったとおもうのだが、このふてぶてしさは停学か退学になりそうな局面でも嘘を吐き続けた小中学校だったり、まぁ進学校でろくな勉強をせず遊んで過ごした高校時代と浪人期、まともに授業やゼミに出(られ)ず挙句留年したりして培った面の皮の厚さを土台とした自己呈示できるようになってきている、ということだろう。自分のものの考え方は基本的には脱構築みたいなもので、発想のレベルにまで解体してそこで乗っかるみた

      ¥100
      • 2024/10/10

        「社会人」のキツイところ、ステレオタイプの若者を押し付けられるところじゃないか?

        ¥100
        • 2024/10/09

          久々に気分が塞ぎ込んでいる。塞ぎ込んでいるというのは、考え方ではどうにもならないときのことを言っている。こういうときは何かする必要がする。自分の内側でどうにかする段ではなく、外側でコントロールする必要がある。やりたいことを自分のペースでやる。なんというか、やっぱり自分は軽度の鬱病なように感じられる。この感じはかなり久しぶりだ。ちょっと懐かしくもある。

          ¥100

          2024/10/08

          愛着のある人を見送るのは、精神的には繋がったまま、極端に言えば己であるところの愛着のあるものが分離する、細胞分裂するのだとして、愛着のある人が変わってしまうことが寂しいのは、身体であるところが別の何かになってしまったからだろう。そこには2度目の別れがある。かつて身体だった何か、もはや精神的繋がりもなく、その痕跡だけを見て取ってしまうような。あのときはよかった、でも今はとこぼすような。今の身体はこの身体ではないものも混じっている。今の身体は記憶によって、過去からなるもので、現に

          ¥100

          2024/10/06

          書けることとやりたいことが違っており、書けることによって買いちゃいたいという気持ちがありつつも、やりたいことをやるというのもあって、まぁどっちもやっているのだが、グズグズ感があるし一旦どちらかに振り切ってしまおうと思う(これが仮固定)。てか、諦めるのではなく、諦めることがあるくらい深い次元で一旦こうしようにすればいいのだ。

          2024/10/05

          現代美術って基本的に冗長で、その意味で作品にするというのは冗長さをコンパクトにするということだと思っているし、作品の評価はコンパクトさにかかっているとまで思うが、作家がコンパクトさを追求して作品にすることをやめた場合、その時コンパクトになっているもの、例えば作家自身がコンパクトになっているとき、その作家は別の己を己において提示することになるわけで、そこに生じるような悲哀というのは作家によってしか理解されないわけだが、だとしたら作品は何(「基体」というグリーンバーグの言葉があっ

          2024/10/04

          社会を変えようとするなら政治家でなければ認められないというような、不信に耐えられないのが増えている気がするし、その小心を覆い隠すものとして正義が利用されていると思わなくもない。

          2024/10/03

          本当にどうでもいいことが多すぎる。どうでもいいからなんでもいいし、なんでもいいしまぁ無理しない程度にいい感じであればいい、みたいな発想で物事やり過ぎてて、それにうんざりしてきている。そんなにいい感じじゃなくてもいい。つまり多少色々悪くていい。

          2024/10/01

          気が付いたのだが、人間関係において俺が苦手とするというかエネルギーを過剰に必要とするのは会話で、おもしろいがうまくやらないと消耗が激しい。人と関わりが多い場は会話の量が必然的に増え、向いてはいない。

          2024/09/28

          ランダムなシフト制の仕事をしていると、自分のプライベートは人と比べると結構なウェイトがあることがわかる。早くオフィスに戻りたい。

          2024/09/27

          気遣いだとか配慮だとか、そういうのを端的に「女性性」のあるなしで片付ける言説というのは群れて生きる人間にとってあまり役に立たない。

          2024/09/26

          自分の言う「おもしろさ」というのがいまいちなんのことかわからなかったが、「責任感」という言葉で置き換えられると思った。そして、責任というのを本当に避けてまくってきたのだが、責任というのはおもしろさの外在のことかもしれない。外在するおもしろさはダイレクトに私を巻き込むカオスとしてある。もちろんおもしろいことはいくつもあり、私はそれらと時折遭遇するわけだが、そのとき私はどのおもしろさを認める=責任を取るのかが肝心だ。これはある種の実存主義だと思う。

          2024/09/24

          ツイッターは内容がそのまま声に、声がそのまま内容になることを暴いたと思う。そして自分はこれを擁護したいのだが、なぜこれを擁護したいのかというと、愚かさとかそういう話ではなく、まるごとの存在を擁護したいからだ。多分この存在という言葉で言いたいことには非人間性も入っているのだが、非人間性、あるいは人間性に拘りすぎることなく、まるごとの存在を擁護したい。

          2024/09/23

          書いている途中で日付は変わるだろうが、24日で書いておく。と言いつつも書きたいことが特にない。書きたいことなんてのはかつてはそれが自分にあるとすることすらおこがましかったのだが、いまははっきりとある。というか、明確に書きたくないことがあるという感じだ。文章として結実させたくないと思うようなトピックがいくつか浮かぶ。これまで妥協して書いていたようにも思えてくる。まぁ書くこと自体が目的だったからいいのだが。この文章は日記を書くために書かれている。日記を書くことはあと9ヶ月くらいで

          2024/09/22

          「俺はすごい」と示さなければならないこと、そう促す共同体、しんどい。結果を出すならそれでいいというのがいかに楽か。つまり結果が「俺はすごい」というのを肩代わりしてくれるわけだし、結果のための過程にしかいない人の共同体になるわけで。