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54. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」

第5節「東映娯楽時代劇黄金期の名監督② マキノ雅弘 後編」

 京都に戻ったマキノ正博は東横映画で心機一転、黒澤明の脚本をもとに、新国劇の名作『殺陣師段平』に取り組みます。月形龍之介が演じる段平の女房お春役に山田五十鈴が駆けつけ、ボロボロの正博を励ましながらなんとか予定内に完成にこぎつけました。
 そのタイトルバックを見て、正博はマキノ雅弘に名前が変わっていることに気づきます。撮影所長だったマキノ満男が光雄に改名したのに合わせて正博も雅弘改名していたのでした。
 8月公開のこの作品は評判も良く、続けて第1部を伊藤大輔監督が手掛けた早川雪洲主演『レ・ミゼラブル あゝ無情』の 第二部を早川のスケジュールが残り少ない状況で監督します。

1950年8月東横『殺陣師段平』マキノ雅弘監督・月形龍之介主演
1950年11月東横『レ・ミゼラブルあゝ無情 第二部 愛と自由の旗』マキノ雅弘監督・早川雪洲主演

 その後も東横映画で、片岡千恵蔵市川右太衛門共演の正月作品『千石纏』を監督、続けて正月作品片岡千恵蔵主演『女賊と判官』、2月公開市川右太衛門主演、山田五十鈴共演の『お艶殺し』と休む暇なく監督しました。

1950年12月東横『千石纏』マキノ雅弘監督・片岡千恵蔵主演
1951年1月東横『女賊と判官』マキノ雅弘監督・片岡千恵蔵主演
1951年2月東横『お艶殺し』マキノ雅弘監督・市川右太衛門主演

 しかし、高利の負債に苦しむ東横映画は、安く値切った監督料の支払いにも苦しみ、雅弘の生活は苦しい状態が続きます。
 1951年4月、東急電鉄から経営立て直しの為に来た大川博が社長に就任して東映誕生しました。大川は徹底した予算主義を唱え、高利貸からの負債を整理し会社の経営合理化を図ります。
 雅弘は東映になってから、千恵蔵右太衛門月形龍之介が共演する5月公開『豪快三人男』を監督した後、ノーギャラで『浪人街 第一話 美しき獲物』のリメイクを月形主演『酔いどれ八萬騎』という題名で監督しました。雅弘の生活はなかなか改善しませんでしたが、一同の努力のおかげで東映も徐々に借金を返済、体力をつけていきます。
 苦しい経営状況の中、マキノ雅弘の献身的な働きは東映初期の経営大きく貢献しました。

1951年5月東映『豪快三人男』マキノ雅弘監督・市川右太衛門主演
1951年10月東映『酔いどれ八萬騎』マキノ雅弘監督・月形龍之介主演

 雅弘が京都で苦労している間に、1951年9月小林一三が映画界に復帰、東宝社長就任します。1952年正月、小林から呼び出されたマキノ雅弘は再び東宝での監督を依頼され、東映を離れました。

 東宝での復帰第1作エノケン越路吹雪が帝国劇場で公演した舞台の映画版、1952年3月公開『おかる勘平』。続けて、重光彰主演4月公開『浮雲日記』、二本柳寛主演5月公開『やぐら太鼓』を監督します。
 その後、東宝も離れ、フリーの立場になって新東宝大映、そして松竹太秦撮影所(マキノトーキー撮影所を買い取って経営)で新国劇辰巳柳太郎島田正吾主演の10月公開『武蔵と小次郎』などを監督しました。
 
 京都での撮影準備の際、雅弘は信奉する占い師の勧めで22歳年下、『浮雲日記』に出演した東宝の第1期ニューフェースの女優鳳弓子再婚し、新たな家庭のスタートを切ります。

 そんな折、松竹の若手人気スター鶴田浩二が独立して新生プロを立ち上げ、新東宝と組み10月公開『弥太郎笠 前後篇』を製作、雅弘が監督を担当しました。この作品には、雅弘が推薦した岸恵子が鶴田の相手役として共演、大ヒットします。続けて、鶴田と岸主演、松林宗恵監督が初のハワイロケを行った『ハワイの夜』を共同監督し、大ヒット。両作品で鶴田と共に岸恵子の名前も一躍有名になります。その年、松竹に戻った岸恵子は、『君の名は』三部作に主演すると国民的な大ヒットを飛ばし、大スターとなりました。 
 
 同じ時期に、雅弘は東宝から新人育成のための新シリーズの依頼を受け、1952年12月4日公開『次郎長三国志 第一部 次郎長売出す』を監督します。原作は村上元三が文藝春秋社の『オール読物』に連載を始めたばかりの作品で田崎潤が持ち込んだものでした。
 第8部まで監督助手に岡本喜八郎(第8部岡本喜八)が付き、主演の小堀明男をはじめ、石松の森繁久彌、鬼吉の田崎潤、大政の河津清三郎(東映)、法印大五郎の田中春男(新東宝)など個性的な俳優陣が演じる『次郎長シリーズ』は、1954年7月第9部 荒神山』まで続き、ヒットを重ねることで小林一三から大入り手当もでるほど、マキノ雅弘は戦後、労働問題や主要俳優の大量離脱などで経営に苦しむ東宝を支える役割を果たしました。
 また、雅弘が手掛けたこの『次郎長三国志』シリーズは、その後、何回もリメイクされる次郎長映画の原点となりました。

 その間、『第2部 次郎長初旅』と『ハワイの夜』が1953年1月9日同日公開となってしまい、東宝と新東宝で問題になりましたが両作品とも大ヒットし、事なきを得ます。

 一方、雅弘は、東宝次郎長シリーズ撮影の合間に、永田から依頼を受け、大映大河内伝次郎主演1953年7月公開『丹下左膳』、9月公開『続丹下左膳』を監督します。その後も笹井末三郎の依頼により大映で1954年2月公開若原雅夫主演『美しき鷹』、9月公開鶴田浩二主演『此村大吉』を監督しました。

 東宝次郎長シリーズを終えた雅弘は、1955年、前年新たに製作を開始した日活江守清樹郎常務に呼ばれ、八木保太郎の脚本で河津清三郎主演2月公開『次郎長遊侠伝 秋葉の火祭り』を監督します。石松役で森繁久彌も参加、東宝『おかる勘平』に荒井三枝子という名で出演していた北原三枝も松竹を経て日活に入社、この作品に登場しました。また、雅弘の後を追って、宝塚映画と契約していた甥の長門裕之も宝塚映画を飛び出し日活に入社します。
 次作5月公開『次郎長遊侠伝 天城鴉』には、長門津川雅彦の父、四代目沢村國太郎(正博の四番目の姉の夫)も出演、これ以降、京都の國太郎一家は家族そろって東京に出てきました。
 笹井末三郎との話し合い新東宝で2作監督した雅弘は、日活3作目として、東横で監督した『殺陣師団平』をリメイクし『人生とんぼ返り』タイトルで11月公開。森繁久彌の段平、女房お春役には五社協定を破って山田五十鈴が再び出演したこの作品は大ヒットし、再開した日活にも雅弘は貢献します。
 その後、日活1956年1月公開水島道太郎主演『丹下左膳三部作などを監督し、長門裕之津川雅彦兄弟を残して日活を去りました。

 前年1955年8月に小林一三が社長を退任した東宝で、1956年2本監督した雅弘は、年末に力道山から直接依頼を受け、東映東京撮影所1957年1月公開力道山主演『純情部隊』を監督します。

1957年1月東映「純情部隊」マキノ雅弘・力道山主演

 この作品がきっかけとなり、フリーの立場で、再び光雄が企画を差配する東映で監督を担当しました。
 1956年に年間配収日本一に輝いた東映は、経営が安定し量産体制に入っており、早撮りで撮影日数もかからず、安い経費で良作を監督する雅弘は、光雄にとっては心強い存在でした。
 光雄の希望で、雅弘は、以前、山上伊太郎脚本南光明主演で監督した『崇禅寺馬場』を、依田義賢脚本にて大友柳太朗主演『仇討崇禅寺馬場』とタイトルを変えリメイク。1957年6月に公開します。

1957年6月東映『仇討崇禅寺馬場』マキノ雅弘監督・大友柳太朗主演

 続けて、山上と共に脚本を書いた長谷川一夫主演『阿波の踊子』を8月公開大友柳太朗主演で『阿波踊り 鳴門の海賊』として再映画化した雅弘は、光雄の企画で中村錦之助主演『成吉思汗』に取り掛かりました。

1957年8月東映『阿波踊り 鳴門の海賊」マキノ雅弘監督・大友柳太朗主演

 しかし、光雄が脳腫瘍で倒れて入院するとこの企画は頓挫。病床の光雄から、山上原作『弥次喜多 名君初上り』を錦之助ひばりでリメイクすることを乞われ、雅弘は『おしどり駕篭』という題で脚本監督します。
 『名君初上がり』の撮影中に母知世子が亡くなったように、この作品の撮影中に今度は弟光雄逝去しましたが、光雄最後の企画は遅れることなく完成し1958年1月公開すると大ヒットしました。

1958年1月東映『おしどり駕篭』マキノ雅弘監督・中村錦之助主演

 光雄が亡くなってからも、東映からのオファーで雅弘のリメイクは続きます。
 戦後まもなく松竹で監督した水島道太郎主演の現代劇『非常線』を、東京撮影所にて高倉健主演で再映画化し4月公開。

1958年4月東映『非常線』マキノ雅弘監督・高倉健主演

 中村賀津雄の現代劇を監督の後、かつて森繁久彌が石松を演じた『次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊』を、錦之助からのたっての願いでリメイクし『清水港の名物男 遠州森の石松』と言うタイトルで6月公開しました。

1958年6月東映『清水港の名物男 遠州森の石松』マキノ雅弘監督・中村錦之助主演

 雅弘は、錦之助ばかりでなく、大川橋蔵からも依頼を受けて、1958年12月公開村上元三原作『喧嘩笠』を初監督。

1958年12月東映『喧嘩笠』マキノ雅弘監督・大川橋蔵主演

 以後も、橋蔵で阪妻主演の名作『恋山彦』をリメイクし1959年9月に公開した後、12月公開『雪之丞変化』、1961年2月公開『江戸っ子肌』、4月公開伊藤大輔脚本の『月形半平太』、1962年7月公開『橋蔵のやくざ判官』(『昨日消えた男』のリメイク)、1963年2月公開『いれずみ半太郎』と橋蔵主演作も次々と監督をしました。

1959年9月東映『恋山彦』マキノ雅弘監督・大川橋蔵主演
1959年12月東映『雪之丞変化』マキノ雅弘監督・大川橋蔵主演
1961年2月東映『江戸っ子肌』マキノ雅弘監督・大川橋蔵主演
1961年4月東映『月形半平太』マキノ雅弘監督・大川橋蔵主演
1962年7月東映『橋蔵のやくざ判官』マキノ雅弘監督・大川橋蔵主演
1963年2月東映『いれずみ半太郎』マキノ雅弘監督・大川橋蔵主演

 また、中村錦之助は、松田定次が監督する1959年の東映時代劇オールスター映画『忠臣蔵 桜花の巻 菊花の巻』で、自分の出演シーンは松田の演出を断り、雅弘に監督をお願いするほど敬愛します。
 雅弘は、続けて錦之助主演で1960年2月公開『弥太郎笠』をリメイクすると、12月公開『若き日の次郎長 東海の顔役』、1961年6月公開『若き日の次郎長 東海一の若親分』、1962年1月公開『若き日の次郎長 東海道のつむじ風』と『若き日の次郎長』シリーズを監督しました。

1960年2月東映『弥太郎笠』マキノ雅弘監督・中村錦之助主演
1960年12月東映『若き日の次郎長 東海の顔役』マキノ雅弘監督・中村錦之助主演

 その間に雅弘は、大映で永田雅一とぶつかった伊藤大輔に錦之助を推薦、伊藤は東映に移り、1961年11月錦之助主演の名作『反逆児』を監督します。
 俳優として次のステージを目指していた錦之助は、内田吐夢伊藤大輔今井正田坂具隆など芸術映画巨匠たちとも数多く仕事をするようになっていきました。
 岡田茂京都撮影所長に復帰し、時代劇から任侠映画への転換をを図っていた1964年俊藤浩滋プロデューサーから雅弘に錦之助主演の仁侠映画日本侠客伝』の話がきます。しかし、田坂監督『鮫』の撮影が大幅に遅れ、予定通りクランクインができず、雅弘の調整で主役を高倉健に交代して錦之助は準主演に回ります。この映画を8月に公開すると大ヒット。その後、高倉主役で全11作を数える大人気シリーズとなり、高倉は大スターの道を歩みだしました。

1964年8月東映『日本侠客伝』マキノ雅弘・高倉健主演

 『日本侠客伝』シリーズ第1作から9作まで監督したマキノ雅弘は、他にも高倉健主演『侠客列伝』『昭和残侠伝 血染めの唐獅子』『新網走番外地』など数多くの仁侠映画を監督した東映任侠映画の立役者でもあります。

 1960年、第二東映を立ち上げた東映は製作本数が大幅に増加、主演スターを確保するため、俊藤浩滋は岡田茂から頼まれ東宝から鶴田浩二を引き抜きます。
 鶴田は、第二東映、ニュー東映で数多くの現代劇、時代劇に主演、東京撮影所のギャング映画の主役として活躍した後、1963年3月公開沢島忠監督『人生劇場 飛車角』で主演の飛車角を演じ大ヒット、5月公開の『続飛車角』も大ヒットし、東映仁侠映画の口火を切りました。
 そして、鶴田の育ての親でもある雅弘は、京都撮影所で初めて企画を担当した俊藤から頼まれ、鶴田主演で10月公開『次郎長三国志』を再映画化します。さらに11月公開の続編1964年2月公開第3部と監督し、併せて8月には俊藤と『日本侠客伝』を立ち上げたのでした。
 次郎長シリーズは1965年8月公開第4作『次郎長三国志 甲州路殴り込み』で終了しました。

1963年10月東映『次郎長三国志』マキノ雅弘監督・鶴田浩二主演
1965年8月東映『次郎長三国志 甲州路殴り込み』マキノ雅弘監督・鶴田浩二主演

  1962年、雅弘は、俊藤浩滋の19歳の純子を預かり、着物の着付け、立ち居振る舞い、所作などの演技指導を徹底的に行います。雅弘は、藤純子と命名し、自ら監督する1963年6月公開片岡千恵蔵主演『八州遊侠伝 男の盃 』で千葉真一の相手役として映画デビューさせました。

1963年6月東映『八州遊侠伝 男の盃 』マキノ雅弘監督・片岡千恵蔵主演

 藤は、その年、朝日放送の人気番組『スチャラカ社員』にもレギュラー出演し、お茶の間にも知られるようになります。
 1966年、俊藤が企画、雅弘が監督した3月公開『日本大侠客』に出演した藤純子は、この作品で日本刀を抜きピストルを撃つお竜役を演じます。その後、1968年9月公開山下耕作監督『緋牡丹博徒』の緋牡丹のお竜役で任侠映画スターとして大ブレイクするのでした。

1966年3月東映『日本大侠客』マキノ雅弘監督・鶴田浩二主演

 1971年、大川博の逝去で岡田茂が社長に就任すると、マキノ雅弘は東映を去ることを決意します。
 1972年、4代目尾上菊之助との結婚を機に芸能界を引退することを決めた藤純子主演、3月公開『純子引退記念映画 関東緋桜一家』を監督すると、64歳のマキノ雅弘はおよそ40年に及ぶ映画界から離れ、テレビ界へ移りました。

 1972年3月東映『純子引退記念 関東緋桜一家」マキノ雅弘監督・藤純子主演

 日本映画の父、牧野省三の娯楽映画の魂を受け継ぐマキノ雅弘は、戦前戦後を通じ、監督、脚本家、プロデューサーとして数多くの映画にかかわり、俳優をはじめとする多くの人材を育てました。
 娯楽映画を通じ、日活大映松竹東宝新東宝戦後の日活、そして東横映画から東映、と会社を越えたフリーの立場で協力し、映画会社各社経営危機を救ったのもマキノ雅弘でした。
 特に弟マキノ光雄が立ち上げた東横映画、東映には初期から参加し、時代劇任侠映画プログラムピクチャー量産し、数多くのスターを生み出すことで多大なる貢献をしました。
 牧野省三が作ったマキノ娯楽映画の血脈を異母兄の松田定次、弟マキノ光雄と共に東映に引き継いだのがマキノ雅弘です。

マキノ雅弘
マキノ雅弘監督東映作品一覧表