93. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」
第19節「大川博の事業総括 後編」
3 テレビ事業への進出
1953年、欧米の映画産業を視察し、近い将来日本映画界にもテレビの大きな波が来ることを知った大川博は、帰国後、すぐさまテレビ事業への進出を図りました。
⑯ 日本教育テレビ(現テレビ朝日)開局
大川博は、旺文社、日本経済新聞社子会社の日本短波放送などと共に1957年11月1日、株式会社日本教育テレビ(NET)を設立、代表取締役会長に大川博、代表取締役社長に旺文社の赤尾好夫が就任します。1959年1月9日、本免許状が交付され、2月1日から本放送を開始しました。
東映は旺文社に次ぐ大株主として、積極的にテレビ事業に乗りだし、1960年11月30日、大川は日本教育テレビの代表取締役社長に就任、同時に局の呼称をNETテレビと改めました。
また、大川は、1957年5月、翌年竣工予定の東京タワー運営会社である日本電波塔株式会社(現・株式会社TOKYO TOWER)の大株主として設立に参加しました。
⑰ 東映テレビ・プロダクション設立、テレビ映画制作開始
1958年11月、翌年の日本教育テレビの開局に向けて、テレビ映画制作会社株式会社東映テレビ・プロダクションとそれに伴う俳優需要拡大に対応するべく東映児童演劇研修所を設立します。
会社設立前の10月から京都撮影所(京撮)にて、東映テレビ第1作『風小僧』シリーズ、東京撮影所(東撮)にて、東映刑事ドラマ第1作『捜査本部』シリーズの制作に入り、NET誕生前のため、『風小僧』は12月2日に香川の西日本放送から、『捜査本部』は12月27日に名古屋の東海テレビから、先行放送され、いずれも好評を博し、ここから東映テレビ映画制作の歴史が始まるのでした。
⑱ テレビCM制作参入
民放が次々と放送を開始し、テレビが普及すると共にその番組スポンサー企業のCM需要も拡大します。1957年に新しくスタジオを新設した東映動画は、東映本社が営業を担当し、拡大するテレビCMの制作に乗り出しました。
⑲ テレビアニメ制作開始
1963年1月、手塚治虫率いる虫プロダクションによる日本初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』がフジテレビ系にて放映が開始されます。
この年、東映動画も、テレビアニメシリーズ『狼少年ケン』(1963/11/25~1965/8/16)を制作、11月よりNET系にて放映を始めました。この作品は子どもたちに大人気となり、その後、次々と人気テレビアニメを制作、NET系ばかりでなく、フジテレビなど他系列でも人気作を制作して行きます。
〇 映画事業で日本一になった大川は、次に来る時代を見て即時に行動、いち早くテレビ事業に参入し、映画に続きテレビ事業でも長きに渡り多くの収益を東映にもたらしました。
4 M&A等による広告代理業進出
大川は、テレビ業進出と共にそのスポンサーを扱う広告代理業へもM&Aで乗り出して行きます。
⑳ 東映商事(現・東映エージェンシー)設立、広告代理業進出
1958年、朝日新聞社と共にニュース映画制作会社株式会社朝日テレビニュース社(現・テレビ朝日映像)を設立した大川は、劇場CMを開発した広告代理店・旺映社をM&Aし傘下に収め、1959年8月、東映商事株式会社と商号を変え社長に就任しました。
東映商事は東映ニュースに付ける劇場CMのスポンサー営業に加え、東映のテレビ部が行っていたテレビCM制作受注営業を担当し、広告代理業に参入します。
東映商事は順調に業績を伸ばし、1969年10月には商号を株式会社東映エージエンシ-に変更し、現在では、人材派遣業など広告代理業にとどまらない幅広い営業活動を行っています。
㉑ 東映CM設立、CM制作独立
同じく1969年10月、これまで数多くのCMを制作してきた東映動画のCM制作部門を独立させ、東映シーエム株式会社を設立しました。
㉒ PR映画制作会社・日本産業映画センターをM&A
株式会社日本産業映画センターは、1961年に味の素・朝日麦酒・富士製鉄・日本鋼管・野村証券・東洋レーヨン・トヨタ自動車、日本を代表する大手企業7社が出資し、各企業のPR映画を制作する目的で作られた会社でしたが、慣れない映像事業会社ということで経営に苦しんでいました。
経営再建の相談を持ち掛けられた大川は、1965年9月、日本産業映画センターをM&Aし、企業用PR映画制作受注にも乗り出していた東映商事の傘下に置きました。
大川の手腕で経営が安定した1969年10月、東映CM設立と共に、この会社は東映商事の傘下から独立し、東映の子会社となります。
㉓ 貿易業進出、東映貿易独立
劇場CMを始め、CM制作などに取り組み順調に成績を伸ばした東映商事は1961年9月から貿易部門を設立し、ベルギーのゲバルト社の映画用フィルムの輸入を開始します。
1963年3月、大川は貿易部門を分離独立させて、東映貿易株式会社を設立しました。
東映の外国部と連携し、ゲバルトフィルムの輸入販売以外に8ミリ映機部が担当していた東映トーキー8ミリ映写機の輸出、物資や食品の輸出入などを手掛けて行きます。東映貿易は設立当初の9名から年末には30名ほどの人員が揃い、産業機械の輸入など業務を拡大して行きました。
大川が創設した貿易商社・東映貿易は、その後、オイルショック、バブル崩壊などの荒波を乗り越え、2012年9月末で解散するまでおよそ50年に渡り子会社として東映を支えました。
5 M&Aによる新規事業開発、多角経営化
1960年代に入るとテレビの普及により映画産業は大きな打撃を受けます。映画界で日本一になった東映も、これまで大入りだった娯楽映画の集客が苦戦するようになり、安定経営を目指す大川は、これまでの映像関連産業ばかりでなくM&Aをすることで他産業へも乗り出し、事業の多角化を積極的に推進しました。
㉔ 東映ホテル開業、ホテル事業進出
1960年10月、新潟県湯沢温泉にある湯沢観光ホテルをM&Aし、湯沢東映観光ホテルと名称を変え、そのまま引き継いでホテル営業を始めます。今も続く東映ホテル事業のスタートで、翌年7月には新たに建設した新潟東映ホテルをオープンさせました。
その後、次々とホテルを開業、最盛期には全国に9つのホテルを有するチェーンとなり、ホテル事業は東映の経営を支えます。
㉕ 東映不動産設立、不動産事業進出
1961年9月18日、多角化経営を目指す東映は、京都撮影所内に子会社東映不動産株式会社本社、西銀座の東映本社内に東映不動産東京支店を置きました。そして、京都西京極や太秦にてガソリンスタンドを経営、不動産売買やそれに伴う保険代理業に乗り出します。
1963年3月1日には今後の首都圏での不動産需要の拡大を鑑み東映不動産本店を東京に移しました。4月、大阪営業所を大阪支店とし、新たに札幌、名古屋、北九州、福岡に支店を設け、これでの東京支店、京都支店と合わせて7支店と営業範囲を広げて行きます。
東京に本店を移して5周年を迎え、1968年8月10日、東映不動産は4月に竣工した日本初の超高層ビル霞が関ビルディング31階に会社を移します。
1961年にガソリンスタンド経営から始まった東映不動産。戸建て住宅用土地の開発、分譲、建売と試行錯誤をくり返しながらも住宅建設需要に乗り、順調に伸びてきました。
その後、不動産事業は東映本体が吸収、主要事業として経営を支えて行きます。
㉖ M&Aで東映プラスチック工業設立、プラスチック加工業参入
1961年9月4日、東映化学工業はM&Aを行い、群馬県太田市近郊に東映プラスチック工業株式会社を子会社として設立。11月には将来性を鑑み東映の直接の子会社としました。
東映プラスチック工業は、三洋電機の製造する冷蔵庫内のプラスチック部品を下請け製造する事業を主にしており、1962年、冷蔵庫需要の拡大を見込み、二棟目の工場を拡張します。
しかし、事業は停滞し、1964年には経営を積水化学工業株式会社に任せ、1970年4月、東都積水化学工業株式会社と商号を改めました。
東都積水化学工業は東都積水株式会社と名前を変え、現在も積水化学グループの子会社として活躍しています。
㉗ 東京タワータクシー・東映タクシー設立、タクシー事業参入
1960年9月9日、大株主として資本参加している日本電波塔株式会社からタクシーの営業権を譲り受け、東京タワータクシーを設立、タクシー事業に乗り出します。
1962年12月には京都でタクシー営業免許を取得し、西京極タクシー株式会社を創設しました。翌1963年1月22日に西京極タクシーは東映タクシーと改称、新社屋も完成した3月5日、タクシー15台で営業を開始しました。
1966年4月から東京タワータクシーでは自動車の修理整備請負にも乗り出し、1968年10月、商号を東京タワー交通株式会社に変更しました。
東京、京都の両タクシー会社とも順調に売り上げは伸びてゆきますが、業界に多くの企業が参入したため、運転手不足が生じ、1972年5月31日、東京タワー交通は解散、京都の東映タクシーは、1980年6月10日、洛東タクシーに譲渡し、役割を終えました。
㉘ 東映芸能設立、俳優マネージメント及びイベント事業進出
1962年8月の明治座から始まった東映歌舞伎公演は大成功し、1965年10月、東映は、これまで担当してきた本社製作本部から独立させ、新規事業会社として東映芸能株式会社を設立します。
また、そこに大人から子供まで東映所属俳優の芸能活動をまとめてマネージメントできるよう、東映児童演劇研修所も吸収させました。
東映歌舞伎終了後も東映劇団を旗揚げして公演を続け、子供向けショーにも取り組みます。また、新たに演技研修所を設け大人の俳優養成を開始、所属俳優のマネージメント活動を継続しました。
大川の死後、東映芸能は『仮面ライダー』のヒットから、現在事業推進部の柱の一つであるキャラクターショー事業を作り上げました。
㉙ 東映フラワー設立、観葉植物レンタル業から装飾業、建装事業進出
1962年9月20日、銀座の東映本社5階に花卉・観葉植物の栽培・販売・賃貸、店内装飾を請け負う株式会社東映フラワーを設立します。東京撮影所オープンセットの一画に、八丈島産観葉植物を栽培するビニールハウスと鉢植する作業所を竣工し、新潟県の山下農園が考案したオフィスや洋間にフィットするプラスチック製植木鉢の在庫商品を使用して貸鉢業を始めました。
時代を先取りした観葉植物レンタル業は、営業努力もあり、百貨店、銀行、ホテル、病院、飲食店など洋風建物の装飾として需要が徐々に拡大して行き、やがて貸鉢業ばかりでなく、出入りの百貨店などの年末店内装飾を手掛け、売り上げが倍増して行きます。
装飾部門にて業者を活用し営業活動を拡大する体制を構築し、それと共に売り上げもどんどん増加しました。
1970年11月から内装工事に乗り出し、大口の受注を獲得し、建装事業に進出します。
大川の死後、装飾業務の拡大を目指し、1972年8月1日、社名を株式会社東映インテリアと改称しました。
1996年7月、現在も東映グループの一員として建装部門を担う株式会社東映建工に商号を変えます。
㉚ 東映ボウルチェーン、ボウリング事業進出
1964年5月2日、映画事業が苦戦する中、劇場活用の新規附帯事業として横浜東映パラスの敷地に東映初のボウリング場、東映ボウリングセンターを開業します。
その後の爆発的ブームに乗り、次々とボウリング場を新設し、1972年9月には28サイト、総数648レーンという日本有数のチェーンまで成長、一時は経営の柱として東映を支えました。
しかし、急速にブームは沈静化し、1975年10月31日、ボウリング事業から完全撤退しました。
㉛ 東映ビデオ設立、ビデオソフト産業に進出
1965年、ソニーは世界に先駆け、家庭用オープンリール形式モノクロビデオテープレコーダーを発売、ここから家庭用ビデオの時代が始まります。
そこから家電メーカー各社は、独自に一般家庭用のビデオ規格とカラーVTR機の開発を進め、1970年4月1日、これからのビデオ時代に向けて東映は、教材映機本部に教育映画だけでなく一般劇映画もビデオ化してレンタルする窓口部署として特機映像室を設置、6月10日にはビデオ・パッケージ事業を積極的に進めるため、特機映像室を発展させ、東映ビデオ株式会社を設立しました。
翌1971年7月21日、ビデオ・ソフトウェアの業界団体として「日本ビデオ協会」が発足。東映ビデオは理事会社に就任します。
大川の死後、1975年にソニーからベータ・マックス方式、翌年日本ビクターからVHS方式のビデオ録画機が発売され、ここからビデオ産業は大きく飛躍して行きました。
それにともない、東映ビデオも東映グループを支える大きな存在となっていきます。
㉜ 東映観光サービス設立、旅行代理店業進出
1971年5月、大川は、一般旅行代理店として株式会社東映観光サービスを設立、日本旅行前社長を副社長に迎え開業準備に入りました。
8月に大川は逝去しましたが、9月には銀座1丁目に営業所を開設し、10月1日、東映観光サービスは、東映ホテル案内所所長や旅行代理店各社から部長級の人材を集め、営業を開始しました。
しかし、利幅も薄く、多くの大手旅行代理店が競合する業界で後発の東映観光サービスは苦戦。また、会社を立ち上げた大川の死去で東映内での後ろ盾もなくなり、1974年5月29日をもって東映観光サービスは解散しました。
東映本体での映画興行業、劇場開発賃貸管理、海外映画テレビ作品販売、教育映画、不動産開発に加え、東映アニメーション、テレビ朝日、東映テレビ・プロダクション、東映エージエンシ-、東映CM、東映ラボテック、東映ホテルグループ、東映建工、東映ビデオなど、東映グループを支える主要事業のほとんどは50年以上前に大川が映画製作配給業以外に取り組んだ新規事業です。
小林一三、五島慶太から本業を支えるための多角経営を学んだ大川は、映画会社東映でそれを実践しました。
第二東映事業、プラスチック加工事業、ボウリング事業、旅行代理業など失敗に終わった事業もあります。
しかし、世の中の変革期に積極的投資を行い、M&Aで新たな事業を切り開いた大川博は70年以上続く東映の土台を築いた開拓者でした。
以上、この章を終えるにあたり、これまで紹介してきた大川博社長時代の功績を2回にまとめて再掲載しました。
次回以降、久しぶりの社内報に見る「東映の支柱」を採り上げた後、岡田茂社長時代について新たな章に入ります。