70. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」
第10節「東映100年に向けて 次なる事業への取り組み ⑤」
⑧ボウリング事業:東映ボウルチェーン 後編
1968年8月28日、映画劇場とボウリングセンターを一堂に収めた東映初の総合レジャービル、秋田東映会館が開館。12番目のボウリング場がオープンします。
テープカットは社長代理として大川毅取締役が務めました。
続けて、京都、浜松、旭川の開業に向けての建設工事が進んでいきます。
9月25日、東映城と呼ばれていた京都撮影所オープンセットの隣、これまで東映タクシーが太秦給油所を運営していた場所を再開発し 13番目のボウリング場、関西初登場、京都東映ボウリングセンターが開場しました。
11月5日、14番目の浜松東映ボウリングセンター、17日、15番目の旭川東映ボウリングセンターと二つの施設が続けてオープンします。
12月9日、取締役大川毅は1名増員が決まった代表取締役に就任しました。
1969年7月、16番目のボウリング場、福岡東映ボウリングセンターがオープンします。
大川毅が代表取締役として、大川社長に代わって挨拶を行いました。
社内報『とうえい』8・9月合併号はこれまでにない17ページにわたる附帯事業特集を組み、ボウリング事業、ホテル事業を社員に紹介しました。
大川毅代表取締役、堀江朝光事業本部長、田中弘毅技術本部長との対談の中で、大川は開発したボウリング場のすべての土地は田中が見つけて来たものであり、田中が作ったボウリングチェーンであると述べます。
12月は9日に17番目の八代東映ボウリングセンター、15日に18番目の小諸東映ボウリングセンター、21日に19番目の名古屋東映ボウリングセンターと矢つぎばやに3か所が開場しました。
1970年の年頭挨拶にて、大川博は年内500レーンまで増やすことを語りました。
そして年内に、香椎、稲毛、土浦の3センターを新設、東映ボウルチェーンを22センター、508レーンまで拡張することを発表します。
この年3月、全日本プロボウリング選手権にて初めて女子選手による大会が開かれ、第1回大会は女子プロ1期生の中山律子が優勝。この後、8月の女子プロ月例会でNETテレビが撮影する中でパーフェクトを達成し大きな話題を呼びました。人気が沸騰した中山は、シャンプーのTVCMに出演、さわやか律子さんのCMソングは一大旋風を巻き起こし、この後興る爆発的なボウリングブームの立役者となります。
ボウリングブームが沸き起こる中、10月10日、20番目のボウリング場、稲毛東映ボウリングセンターがオープンしました。
続いて26日に、21番目の香椎東映ボウリングセンター、11月3日に、22番目の土浦東映ボウリングセンターが開場します。
10月末の株主総会の後に行われた取締役会で田中取締役技術本部長が常務に選任されます。
1971年1月には田中が技術本部長と兼任で事業本部長に、事業部長に取締役の飯野義勝が就任しました。
3月24日、田中常務が開場式に出席した23番目のボウリング場、徳山東映ボーリングセンターがオープン、続いて24番目、明石でのボウリング場建設を発表します。
そして、年内に25番目のボウリング場、氷見ボウリングセンターの計画を公表しました。
この年8月に東映社長大川博が逝去し、岡田茂が後任の社長に就任します。
9月18日、岡田新社長のテープカットで、24番目のボウリング場、明石東映ボウリングセンターが営業を開始しました。
10月27日、大川代表取締役や田中常務が立会いの下、25番目の氷見東映ボウリングセンターがオープン。これで東映は25センター、582レーン数を誇るボウリングチェーンとなりました。
1972年、新社長岡田茂は年頭あいさつでボウリング場の更なる拡充を述べますが、しかし、急激に加熱したボウリングブームも前年の秋から少し陰りが見え始めました。
2月、取締役事業部長の飯野が退任して東映化工に移り、取締役の保坂啓一が事業部長に就任。3月、拡大方針に基づき、北海道帯広近郊の池田、音更(おとふけ)に二つのボウリング場を建設する予定であることを発表します。
6月11日、全社的な機構改革が行われ、事業部は観光不動産事業部とスポーツ事業部に分かれ、常務で事業本部長の田中が観光不動産部長、取締役で事業部長の保坂がスポーツ事業部長になりました。
8月25日、26番目の池田東映ボウリングセンター、翌26日に27番目の音更東映ボウリングセンターが続けて開場しました。
9月29日には、会津若松に28番目のボウリング場、会津東映ボウリングセンターが誕生します。
数多くのボウリング場が誕生し競争が激化するとともにボウリングブームは急激に鎮静化し、多くの施設の経営は悪化の一途をたどり、1973年2月28日、千葉東映ボウリングセンターを閉鎖するに至ります。
さらに7月には、経営悪化のボウリング事業を立て直すため、8月末までに経営回復の見込みのない14センターの閉鎖を発表します。
そして7月末に14か所すべてを閉鎖しました。
スポーツ事業部長の保坂は社内報の取材に対し、業界はこれからが本格的な整理期に入ると述べます。
また、それぞれの部署で新規事業に取り組み、新たな収入源を確保するために、昨年来、宣伝部、テレビ事業部、教育事業部に設置した関連事業室を、東映全体に広げ、両撮影所に事業部、各支社に関連事業室を新設。スポーツ事業部にもスポーツ関連事業室を置きます。
1974年、年頭の経営方針発表にて岡田はボウリング事業の苦戦に対し、営業努力と運営の合理化、関連事業の開発を語りました。
スポーツ関連事業室は、物品販売や飲食店の経営など様々な収益事業に取り組んで行きます。
8月、スポーツ事業部を改組し、開発事業部と改め、その下に、従来のボウリングや関連事業を担当するレジャー事業部と新たに商品販売や飲食業開発などを担当する商事部を置きました。
同時に観光不動産事業部の下に、ホテル事業を担当する観光部、住宅や宅地を販売する不動産部、観光不動産開発室と三つの部署を設置します。
10月31日の徳山を皮切りに、1975年1月31日に京都・名古屋・高岡・音更、2月28日土浦、4月10日釧路、8月31日福岡・池田・八代、10月21日明石、10月31日最後の会津、ここにすべての東映ボウリングセンターが閉鎖され、ボウリング事業から完全撤退しました。
そして、翌1976年2月1日付けで関連事業部は解消され、商事部は観光不動産部に移管します。
劇場活用の新規事業として始まり、華々しいブームに乗って28サイト、総数656レーンという日本有数のチェーンに成長、一時は経営の柱であったボウリング事業。
1964年5月2日から1975年10月31日までのおよそ10年間、それを陰で支えた東映常務取締役開発本部長田中弘毅は1975年12月21日、59歳で逝去しました。
ちなみに、京都東映ボウリングセンターは映画村のエントランスとして再開発され、今も大型物販施設スタジオマーケットとして活躍中。その床下には当時のレーンが残っています。
今年も1年間にわたり東映の歴史を語ってまいりました。
ご覧いただきありがとうございました!
引き続き来年もよろしくお願い申し上げます。
なお新年1月3日は休載いたします。
次回は1月10日の予定です。
では、皆様、良いお年をお迎えください!