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62. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」

第8節「東映ホテル事業」

 1960年、経営の多角化を目指す大川博は年頭挨拶にて十大経営方針を述べ、その中で新規事業の拡大の一つとして簡易宿泊施設の検討を語りました。
 そして、7月の初頭の上期賞与授与式にて十大経営方針の途中経過報告として、新潟釧路にてホテル用地の獲得を目指していることを述べます。
 その後、9月末の部長会にて、まずは10月から新潟東映ホテルの建設にとりかかり、翌1961年年7月完成を目指すことを発表します。

1960年10月20日発行 社内報『とうえい』第34号

 そんな中、11月1日の部長会にて、10月11日に新潟県湯沢温泉にある湯沢観光ホテルの買収したことが報告され、早速、湯沢東映観光ホテルと名称を変えてホテル営業が始まりました。今も続く東映ホテル事業のスタートです。

1960年11月21日発行 社内報『とうえい』第35号

 このホテルは、越後湯沢駅から徒歩圏内にある湯沢高原スキー場が目の前に広がり、1958年に掘削された源泉を有する湯沢随一の温泉旅館で、順調に営業を伸ばして行きます。

 1961年の年頭挨拶にて大川は昨年度の成果として、湯沢東映観光ホテルの優秀な成績と、7月に新潟駅前の好立地に新潟東映ホテルが完成すること、春から釧路ホテルを建設することを語りました。

1961年1月18日発行 社内報『とうえい』第37号

 そしてこの年7月24日新潟東映ホテルオープンします。

1961年7月31日発行 社内報『とうえい』第43号
1961年7月31日発行 社内報『とうえい』第43号

 続いて9月19日には、予定通り釧路東映ホテル東映3番目のホテルとして開館しました。

1961年10月31日発行 社内報『とうえい』第45号

 翌1962年11月には、好調の湯沢東映観光ホテル新館が完成、本館の増改築と合わせてグランドオープンさせます。

1962年11月30日発行 社内報『とうえい』第58号
1962年11月30日発行 社内報『とうえい』第58号

 1963年、年頭挨拶にて大川はホテル事業が軌道に乗ったことを報告します。実際のところは、大川の出身地である新潟、湯沢の両ホテルは順調に成績を伸ばしていましたが釧路は苦戦中でした。この後、新しいホテルの開発はひと段落しますが、新潟、湯沢、釧路はそれぞれの営業努力で順調に推移して行きます。

 1965年6月1日東映本社1階東映ホテル案内所を設置、東京でのホテル営業強化を図ります。

1965年6月10日発行 社内報『とうえい』第87号
1965年11月30日発行 社内報『とうえい』第92号

 1963年6月に名称を変更した湯沢東映ホテルは、1966年2月に火災が生じ本館が消失してしまいました。
 この機会に跡地を拡充してブームのボウリング場を併設した第二新館を建設、12月に開場します。

1966年12月17日発行 社内報『とうえい』第106号

 1972年7月内閣総理大臣に就任した田中角栄日本列島改造論を発表。これによって全国に開発ブームの波が押し寄せます。
 この波を受け、前年就任した岡田茂社長のもと、リゾートホテル開発が検討され、静岡県熱川にある南海ホテル買収し、老朽化した本館を壊して新たに新築、来秋南熱川東映ホテルとしてオープンすることを発表しました。

1972年10月発行 社内報『とうえい』第169号

 そして、来春の南熱川東映ホテルオープンに先立つ1972年12月東映4番目のホテルが開業します。栃木県の名湯塩原温泉、その中でも有数のホテルで露天ぶろや温泉プールも完備した「吐月荘」を買い取り翌12月1日から営業を開始した塩原東映ホテル「吐月荘」です。

1972年12月発行 社内報『とうえい』第170号
1972年12月発行 社内報『とうえい』第170号

 続いて、1973年10月27日5番目のホテル南熱川東映ホテルがオープンしました。

1973年11月発行 社内報『とうえい』第180号

 また、既存のホテルも営業努力の結果、数字を伸ばしていきました。

1973年12月発行 社内報『とうえい』第181号

 1960年にホテル事業を始めて10数年たち、建物の老朽化や時代のニーズに合わせるため、1975年7月釧路東映ホテル宴会場増築、11月湯沢東映ホテル改築、1976年新潟東映ホテル改築・改装などテコ入れをはかりました。

 東映ホテル事業開発、次の波は1981年2月4日開業東映イン博多から始まります。
 1979年、年頭の経営方針で、「直営劇場再開発とのからみで、ビジネスホテルの建設も検討を進めていく。」と語った岡田は、10月10日に閉館した直営館福岡みなみ東映跡地にビジネスホテル第1号として福岡東映ホテルの建築開業を発表しました。

1979年11月発行 社内報『とうえい』第232号

 1981年2月4日6番目のホテル東映イン博多開業、順調なスタートを切ります。

1981年2月発行 社内報『とうえい』第247号

 翌1982年正月、観光部長の内田雄行は東映イン福岡の好調とそれに続くビジネスホテルの開発による全国チェーンの確立について語ります。

1982年1月発行 社内報『とうえい』第258号

 3月、福岡に続く直営館の再開発として、和歌山東映2館を地下に持つビジネスホテルの計画が発表されました。

1982年3月発行 社内報『とうえい』第260号
1982年3月発行 社内報『とうえい』第260号

 その年12月、松山に新たに土地を借り、1983年10月にビジネスホテル東映イン松山を開業する予定であることを発表します。

1982年12月発行 社内報『とうえい』第269号
1982年12月発行 社内報『とうえい』第269号

 1983年9月、松山と和歌山、両ビジネスホテルを東映から賃借し運営する会社東映インエンタープライズが発足。松山10月8日、和歌山11月9日のオープンが発表されました。

1983年9月発行 社内報『とうえい』第278号

 まずは10月8日7番目のホテル東映イン松山オープンします。 

1983年10月発行 社内報『とうえい』第279号
1983年10月発行 社内報『とうえい』第279号

 続いて11月9日8番目東映イン和歌山オープンしました。

1983年11月発行 社内報『とうえい』第280号
1983年11月発行 社内報『とうえい』第280号

 東映は2つのビジネスホテルのオープンだけでなく、既存施設のリニューアルを進め、1984年12月新潟東映ホテル新館を建設、その後、第二期工事として本館の建て替えを計画していることを発表します。

1983年10月発行 社内報『とうえい』第279号

 翌1984年12月6日、主賓に田中角栄元首相を招いて、新潟東映ホテル新館が盛大にオープンしました。

1984年12月発行 社内報『とうえい』第292号
1984年12月発行 社内報『とうえい』第292号

 翌1985年6月、1983年9月から営業を停止し、駅前の新たな場所で新築工事に入っていた釧路東映ホテルが完成、オープンします。

1985年6月発行 社内報『とうえい』第298号
1985年6月発行 社内報『とうえい』第298号

 また、新たに10月1日9番目のホテル東映イン長崎もオープンしました。

1985年10月発行 社内報『とうえい』第301号
1985年10月発行 社内報『とうえい』第301号

 1987年2月28日、塩原東映ホテルは施設老朽化のため、閉館します。
 3月、念願の大阪に来年10月東映ホテルが進出すること、湯沢東映ホテル第二新館を取り壊し、跡地に今年12月新館をオープンすることを発表しました。

1987年3月発行 社内報『とうえい』第317号
1987年3月発行 社内報『とうえい』第317号
1987年12月発行 社内報『とうえい』第325号

 1987年12月24日湯沢東映ホテル新館オープンします。

1988年1月発行 社内報『とうえい』第326号

 そして、1988年11月13日、大阪JR天王寺駅前すぐの場所に天王寺東映ホテル開業しました。

1988年11月発行 社内報『とうえい』第335号

 この時点で、湯沢東映ホテル新潟東映ホテル釧路東映ホテル南熱川東映ホテル東映イン博多東映イン松山東映イン和歌山東映イン長崎天王寺東映ホテル全国9つのホテルを有するホテルチェーンとなりました。
 各ホテルは営業努力を重ねるとともに、景気の拡大に伴う美食需要に対応するべく優秀な料理人を集め、和歌山、釧路、天王寺の料理長がフランス料理界で権威あるレ・ディシプル・ド・オーギュスト・エスコフィエを受賞したり、松山の料理長が世界料理オリンピックで銀賞を獲得するなど料理にも力を注ぎます。
 また、1965年、はじめ本社1階に設置された東映ホテル案内所も、東京名古屋大阪福岡と営業所を拡大し、お客様の予約の受付や営業を積極的に行いました。

 大川博が湯沢から始めた東映のホテル事業は、岡田茂の直営館再開発にともなうビジネスホテルへの進出で拡大、スタッフの努力で安定した収入をもたらし、東映の経営を下支えしました。

東映ホテル開業推移

 現在営業中ホテル:新潟東映ホテル・湯沢東映ホテル・福岡東映ホテル(東映イン福岡改称)