見出し画像

⑧ 第2章 「激闘1826日!東映発進」

第1節「経理社長から事業社長へ 明日を見ていた大川博 教育映画篇」

 小林一三の薫陶を受けた五島慶太は、その電鉄沿線の街つくりの一環として、師匠の小林以上に教育並びに文化事業の育成に努めました。

 1929年に慶応大学に日吉台の土地10万坪を無償提供して誘致したことをはじめ、日本医科大学、東京工業大学、東京都立大学、東京学芸大学などを沿線に誘致し、そのほか多くの大学の設立や経営を支援するとともに、自らも、五島育英会を設立し、武蔵工業大学や東横学園など現在の東京都市大学グループを運営しました。

 五島学校の優等生大川博も中央大学理事長、東横学園理事長、亜細亜大学理事などの大学運営職に就任し、大学教育に貢献しますが、自ら経営する東映におきましても、会社が安定する1954年後半から、教育映画事業に力を入れはじめます。

 東映の教育映画の始まりは、東横映画黒川渉三社長時代、五島が公職追放を受ける前の1947年1月に設立された開発部でした。

 開発部は、根岸寛一発案によって、満州国協和会、そして満映開発部が行っていた農村部への巡回映写事業を、満映華北電影で事業を担当していた引き揚げスタッフたちで日本での巡回映写事業復活を目指して作られた部署で、全国農業会と提携して、終戦直後の著しい混乱・疲弊の中にあった全国の農村漁村に16ミリ劇映画巡回映写し、大衆に健全な娯楽と教養を与えることを目的に掲げて、全国規模で巡回上映活動を始め、「東横16ミリ」と呼ばれ親しまれました。しかし、翌年全国農業会が解体し、増加する映画常設館との兼ね合いやテレビの普及もあり、次第に停滞していきました。

 そして、東映発足とともに開発部は営業部16ミリ課に改組され、劇映画の16ミリ版の配給上映を続けていましたが、東映が軌道に乗りはじめた1954年9月、大川は、「教育映画自主製作配給委員会」を設置、委員長に子供向け娯楽版をヒットさせたマキノ満男事務局長赤川孝一を任命、10月には16ミリ映画部に昇格させ、一般劇場用映画ではなく、児童劇映画を中心に、社会教育映画、学校教材映画、童話劇映画、文化映画や漫画映画など、児童に向けて教育的要素を豊かに採り入れた芸術性のある楽しい映画の製作配給を、予算主義に従って採算を考えながら行うことを決め、「きけ わだつみの声」の社会派関川秀雄が監督、石橋蓮司が主人公の子役を演じた「ふろたき大将」(現在もDVD販売中)など3本の短編映画を製作し翌1955年1月から配給販売を始めました。

'55年1月児童映画第1弾「ふろたき大将」 (1)

1955年 教育映画第1作「ふろふき大将」関川秀雄監督・石橋蓮司主演

 それは、戦後、諸外国の視聴覚教育が紹介され、日本での地域視聴ライブラリーの新設、育成、拡大が関心を集めるようになり、ライブラリーを構成する教育映画の必要性が言われはじめたことに、いち早く東映として対応し、新しい事業として教育映画界への参入検討を重ねた結果であり、1955年6月には16ミリ映画部を教育映画部に改称します。

 また、大川とともに教育映画への参入を進めたマキノ満男教育映画への思いは、父、牧野省三が、尾上松之助の忍術映画が子供たちに大ブームを巻き起こし社会問題にまで発展したをことをきっかけに、新しい映画つくりを目指して日活から独立、「ミカド商会」、その後等持院で「牧野教育映画製作所」を作り、文部省の星野辰夫、権田保之助の協力のもと、日本で初めて教育映画に取り組んだ姿を彷彿とさせるものであり、娯楽映画と教育映画の並立においても、その年から東映娯楽版を立ち上げ子供たちに大ブームを起こしたマキノ満男率いる東映映画部門に流れるマキノの血脈を感じます。

画像14

 16ミリ映画部が自主製作を始めた時、企画の責任者は当時企画係長、作家赤川次郎の父、赤川孝一でした。赤川は、東大文学部、京大法学部を卒業し、満洲国文教部から満映製作課に転属した秀才で、甘粕正彦理事長がこれまであった俳優養成所を将来映画大学にするべく社員養成所として新たに開所した際、理事長室に配属され養成所を担当、その後映画科学研究所にうつり、漫画映画の自主製作の検討なども重ねながら終戦を迎え、甘粕理事長の護衛としてその死にも立ち会いました。

 赤川は、戦後、東横開発部に所属し、東映になってからも陽の当たらない16ミリの上映を担当、大川が教育映画の自主製作を始める時、満映時代の赤川を知るマキノ満男から声を掛けられ、九州支社から本社に異動、大川から「自由奔放に計画立案して、確実に実行に移すこと」という言葉を聞いて、教育映画に命を懸けて取り組みます。

 「ふろふき大将」など製作した赤川は、1956年2月公開関川秀雄監督「野口英世の少年時代」で初の文部大臣賞を受賞し、同年3月公開カラー記録映画・下村兼史監督「富士は生きている」は文部省特選に選ばれ、それ以降も数々の賞を獲得、1958年より、従来の児童劇映画主体から、学校教材映画や社会教育映画主体に方針を変えて、製作本数も増加、東映の教育映画界での存在感を高めていきました。

画像15

1956年2月公開 文部大臣賞受賞「野口英世の少年時代」関川秀雄監督

画像15

1956年3月公開 文部省特選「富士は生きている」下村兼史監督

画像3

1956年6月11日発行 東映「社報」第40号より

画像5

1956年11月10日発行 東映「社報」第44号より

画像7

 1957年5月20日発行 東映「社報」第49号より

 1954年、教育映画の自主製作を開始した大川は、1955年3月、漫画映画に対する需要の増加、テレビの普及に伴う漫画番組コマーシャルフィルムの必要性を見越し、「漫画映画自主製作委員会」を立ち上げます。

 1955年6月、16ミリ映画部を教育映画部へ改称すると同時に総天然色短編漫画映画うかれバイオリン」を企画製作することを決め、赤川は日動映画株式会社に製作を委託し、10月完成、12月公開、この作品の好評を受け、その大いなる可能性を確信した大川は、翌1956年1月自主製作委員会を解散し、本格的に漫画映画事業に参入するため「漫画映画製作研究委員会」を設立、実務担当委員として当時教育映画部企画製作課長赤川孝一営業部営業課長で後日東映動画社長になる今田智憲を任命し、委員会で教育映画部が提出した「東映漫画映画製作所設立計画書」が採択され、ここから、現東映アニメーションの前身、東映動画誕生に向かって展開していくのでした。

 東映動画誕生のきっかけとなった「うかれバイオリン」を製作した赤川は、1957年5月東映動画第1作目・短編漫画映画「こねこのらくがき薮下泰司演出・森康二原画を完成させ、1957年6月1日教育映画部次長企画課長に昇進、新しく東映本社に誕生した動画部企画課長も兼務し、9月には演出家の薮下を帯同して渡米、最先端のアニメスタジオ各社を訪問して10月に帰国します。

バイオリン

1955年日動映画・総天然色短編漫画映画うかれバイオリン薮下泰司演出

画像6

1957年3月13日発行 東映「社報」第47号より

子猫

1957年東映動画第1作目・短編漫画映画「こねこのらくがき」薮下泰司演出

画像15

1957年10月1日発行 東映「社報」第53号より

 帰国後の11月、第2作目・児童漫画家花野原芳明演出の短編漫画映画「かっぱのぱあ太郎」、1958年4月、第3作目・挿絵画家蕗谷虹児演出による総天然色短編漫画映画「夢見童子」を教育映画作品として完成させます。

 そして1958年10月公開日本初総天然色長編漫画映画「白蛇伝」を製作中の6月1日、兼務していた動画部企画課長の職が解かれ、教育映画次長として、その後部長として、1960年「マッキンレー征服」、1961年東映創立10周年記念教育映画「世界の地理と風俗シリーズ」などを製作しましたが、その年、赤川孝一は朝日テレビニュース社に異動、彼が基盤を作った東映教育映画から去りました。

画像15

1960年9月公開「マッキンレー征服」松田忠彦撮影

画像10

1960年5月20日発行 東映社内報「とうえい」第29号より

画像9

1960年6月20日発行 東映社内報「とうえい」第30号より

 また、東横開発部時代から続く、劇映画の16ミリ上映販売は、教育映画部が管轄していましたが、より簡便さを求めて開発された8ミリフィルム映写機を扱う部署が教育映画部から、8ミリ映機部として独立、次に16ミリと8ミリを統合した教材映機営業部に変わり、そこから1970年東映ビデオ誕生へとつながっていく動きにつきましては別の機会に。

 大川の教育映画に対する情熱は、その後も後輩に連綿と受け継がれ、日本教育映画界の老舗となった現在も数々の賞を受賞するなど、娯楽映画会社東映の良心は今も健在です。 https://www.toei.co.jp/edu/index.html

画像15

微笑む大川博