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58. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」

第5節「東映娯楽時代劇黄金期の名監督⑥ 加藤泰と沢島忠」

 これまで人気のあった東映時代劇のマンネリ化が言われ始めた頃、東映時代劇に新たな風を吹き込んだ二人の監督がいました。山中貞雄の母方の甥で宝プロ出身の加藤泰、東横映画時代に入社した沢島忠の二人です。

加藤泰  ローアングルで描くリリシズムの名匠

 1937年加藤泰は山中貞雄の紹介で東宝砧撮影所に助監督として入社します。そこで知り合った脚本家の八木保太郎に師事、その縁で東宝を離れ理研科学映画で記録映画の監督となりました。
 1944年には八木と共に満洲にわたり、満洲映画協会(満映)啓民映画部に入って満洲奥地で記録映画を監督します。
 終戦後、満洲から引き揚げた加藤は大映京都撮影所に助監督として入社、憧れの伊藤大輔監督の阪東妻三郎主演作品、1947年10月公開『素浪人罷り通る』、1948年10月公開『王将』に付きました。

1947年10月大映『素浪人罷通る』伊藤大輔監督・阪東妻三郎主演
1948年10月大映『王将』伊藤大輔監督・阪東妻三郎主演

 やがて組合の書記長に就任すると積極的に組合活動に取り組み、レッド・パージで大映を離れます。
 1950年、牧野省三の長女富栄の夫である高村将嗣が双ヶ丘に設立した宝プロダクション(宝プロ)の助監督となった加藤は、翌1951年11月公開黒川弥太郎主演『剣難女難』で監督デビューしました。
 1952年宝プロは新東宝との配給契約を解除し、東映と新たに契約。加藤は東映配給で7月公開沢村國太郎主演『清水港は鬼より怖い』、10月公開江見渉主演『ひよどり草紙』を監督します。

1952年7月宝プロ『清水港は鬼より怖い』加藤泰監督・沢村國太郎主演
1952年10月宝プロ『ひよどり草紙』加藤泰監督・江見渉主演

 1956年、東映に誘われ移籍。佐々木康監督などの助監督を務め、1957年1月公開大友柳太朗主演『恋染め浪人』を監督しました。

1957年1月東映『恋染め浪人』加藤泰監督・大友柳太朗主演

 次に、娯楽版で大人気となった中村錦之助主演で4月公開『源氏九郎颯爽記 濡れ髪二刀流』、続いて翌1958年には『若さま侍捕物帖』で人気沸騰中の大川橋蔵主演で1月公開『緋ざくら大名』を担当し、二人の人気を高めます。

1957年4月東映『源氏九郎颯爽記 濡れ髪二刀流』加藤泰監督・中村錦之助主演
1958年1月東映『緋ざくら大名」加藤泰監督・大川橋蔵主演

 時代劇の黄金期を迎えた東映京都撮影所では白塗りのスター映画を数多く作っていましたが、その中で加藤はリアリズムをめざし、錦之助主演でノーメイク映画1958年4月公開『風と女と旅鴉』を監督しました。

1958年4月東映『風と女と旅鴉』加藤泰監督・中村錦之助主演

 続いて1958年5月公開市川右太衛門主演『浪人八景』を撮影中、結核を発病し休養を余儀なくされます。

1958年5月東映『浪人八景』加藤泰監督・市川右太衛門主演

 1959年6月公開橋蔵主演『紅顔の密使』で再起した加藤は、続いて同じく橋蔵主演で1960年2月公開『大江戸の俠児』を監督、橋蔵ともども高い評価を得ました。

1959年6月東映『紅顔の密使』加藤泰監督・大川橋蔵主演
1960年2月東映『大江戸の俠児』加藤泰監督・大川橋蔵主演

 加藤は、錦之助、橋蔵、それぞれの主演作を監督し、彼らの俳優としての成長を促します。
 そして、錦之助主演で監督した長谷川伸原作の股旅映画『瞼の母』は、1962年1月に公開されると評判を呼び、時代劇の傑作として今も映画祭などで上映され、錦之助が東映を去る1966年4月に公開した長谷川伸原作『沓掛時次郎 遊俠一匹』と共にリリシズム豊かに渡り鳥の哀しみを描いた加藤の時代劇代表作と言われています。

1962年1月東映『瞼の母』加藤泰監督・中村錦之助主演
1966年4月東映『沓掛時次郎 遊俠一匹』加藤泰監督・中村錦之助主演

 また、1963年6月公開『真田風雲録』は、錦之助演じる異色の猿飛佐助映画としてカルトな人気を集めました。

1963年6月東映『真田風雲録』加藤泰監督・中村錦之助主演

 錦之助の名作を生み出した加藤は、大川橋蔵主演映画でも、1964年1月公開『風の武士』、1964年12月公開『幕末残酷物語』とタイプは異なるけれど強く印象に残る名品を監督します。

1964年1月東映『風の武士』加藤泰監督・大川橋蔵主演
1964年12月東映『幕末残酷物語』加藤泰監督・大川橋蔵主演

 1964年に岡田茂所長の下、東映京都が任侠映画に向かう中で、加藤は1965年9月公開鶴田浩二主演『明治侠客伝 三代目襲名』を監督、昔ながらの任侠道に生きるヤクザの姿を通じ男の美学を描きました。

1965年9月東映『明治侠客伝 三代目襲名』加藤泰監督・鶴田浩二主演

 翌1966年には、6月公開桜町弘子主演『骨までしゃぶる』で、ヤクザの世界ばかりでなく、明治遊郭で働く女の哀しみと喜びを描きます。

1966年6月東映『骨までしゃぶる』加藤泰監督・桜町弘子主演

 この年、松竹安藤昇主演『男の顔は履歴書』『阿片台地 地獄部隊突撃せよ』を監督、翌1967年には東映京都撮影所で同じく安藤主演2月公開『懲役十八年』を引き続き監督しました。

1967年2月東映『懲役十八年』加藤泰監督・安藤昇主演

 任侠映画全盛の中、加藤は藤純子主演『緋牡丹博徒』シリーズ1969年2月公開第3作『緋牡丹博徒 花札勝負』、1970年3月公開第6作『緋牡丹博徒 お竜参上』、1971年6月公開第7作『緋牡丹博徒 お命戴きます』を受け持ちます。

1969年2月東映『緋牡丹博徒 花札勝負』加藤泰監督・藤純子主演
1970年3月東映『緋牡丹博徒 お竜参上』加藤泰監督・藤純子主演
1971年6月東映『緋牡丹博徒 お命戴きます』加藤泰監督・藤純子主演

 これらの作品は、女俠として生きていくお竜の哀しみを抒情あふれる映像美で描かれています。ラストの立ち回りのシーンで、ピンチにかんざしを抜いて武器に使い、髷がほどけた乱れ髪のまま横笛のドスで悪ボスに立ち向かう姿は、加藤ならではの絶品演出です。

 1972年5月公開江波杏子主演『昭和おんな博徒』を監督した後、東映を離れ松竹へと移籍。そこで『人生劇場』、『花と龍』、『宮本武蔵』等の大作、1977年にはカルト人気の高い『江戸川乱歩の陰獣』などを監督、その間、東宝でも『日本俠花伝』を手掛け、1980年代に入っても、松竹にて田中裕子主演『天城越え』など精力的に監督活動を続けました。

1972年5月東映『昭和おんな博徒』加藤泰監督・江波杏子主演

 加藤泰は監督業だけではなく、数多くの映画、テレビの脚本を手掛け、脚本家としても活躍。監督、脚本家として時代劇、その延長線上にある任侠映画の全盛に貢献しました。

加藤泰監督
加藤泰監督東映作品一覧表

沢島忠(ただし) 東横出身エンターテイメント職人監督

 戦前1918年に同志社大学教授だった野淵昶が創設した劇団エランヴィタール。映画監督に転進し、新興キネマから大映で数多くの作品を手掛けた野淵は戦後1949年、大映の契約者だった月形龍之介ら大映の俳優陣とともに劇団再興します。同志社で演劇映画概論を講じていた野淵に師事した沢島忠も演出助手として劇団に参加しました。

 翌1950年劇団は解散。その際に沢島は、東横映画に転進していた月形の紹介で東横に入社すると、早速、1950年4月公開渡辺邦男監督『いれずみ判官』の助監督に付きます。

1950年4月東横『いれずみ判官 桜花乱舞の巻』渡辺邦男監督・片岡千恵蔵主演

 次に、関川秀雄監督『きけわだつみの声』を担当、そこで製作主任だった若き日の岡田茂と出会いました。
 沢島は、その後も渡辺邦男おやじと呼ぶマキノ雅弘などの監督作品に休む間もなく付き、娯楽映画演出のコツを実践で学びます。

 そんな中、沢島は、渡辺監督作品で数多く一緒に仕事をしたスクリプターの高松冨久子にプロポーズします。中抜きの名人「早撮りのクニさん」にとって、高松は早撮りのためには無くてはならないスタッフであり、結婚の約束をした二人が渡辺に報告に行くと、猛反対を受けました。しかし、二人の意志は固く、4年間で24本修業させてもらった渡辺監督からは高松と共に『鳴門秘帖』を最後に破門されてしまいます。
 破門後は、萩原遼監督『恋しぐれ 浅間の火祭り』から始まり、萩原作品16本などのチーフ助監督を務め、1955年、製作部長岡田茂の後押しでようやく二人は結婚することができました。
 『紅孔雀』で本直しを頼まれた沢島は、高松からは脚本の基本を教わり、鷹沢和善というペンネームにて夫婦共同で数多くの脚本を書いていきます。

 また、沢島は、萩原監督『紅孔雀』で知り合った中村錦之助と仲良くなり、『越後獅子 やくざ若衆』、『源義経』、『獅子丸一平』シリーズと萩原作品を通じ、二人の成長と共に、より親密さを増していきました。錦之助とは監督に昇進したらまずは錦之助主演で『一心太助』を撮る約束をします。 

 萩原監督の後、岡田茂の指示で、京撮のトップ監督で沢島が師匠と呼ぶ松田定次作品にチーフ助監督として付きます。
 これは、監督昇格への登竜門で、沢島は『旗本退屈男』シリーズや東映時代劇オールスター映画、日本初ワイドスクリーン映画『鳳城の花嫁』など大作の撮影を通じて松田の信頼を得て、監督に昇進。1957年12月公開伏見扇太郎主演中編映画『忍術御前試合』で監督デビューしました。

1957年12月東映『忍術御前試合』沢島忠監督・伏見扇太郎主演

 そして、次に錦之助と約束の『江戸の名物男 一心太助』を監督、1958年2月に公開します。錦之助の若さ溢れる溌剌とした動きに合わせ、テンポ良く繰り広げられるドラマは「映画のリズムを変えた」と評され、錦之助の颯爽とした新たな魅力を引き出しました。この後、沢島監督錦之助主演『一心太助』はシリーズ化され、1958年10月公開『一心太助 天下の一大事』、1959年11月公開『一心太助 男の中の男一匹』、1961年1月公開『家光と彦左と一心太助』、1963年1月公開『一心太助 男一匹道中記』まで5本作られます。

1958年2月東映『江戸の名物男 一心太助』沢島忠監督・中村錦之助主演
1958年10月東映「一心太助 天下の一大事」沢島忠監督・中村錦之助主演
1961年1月東映『家光と彦左と一心太助』沢島忠監督・中村錦之助主演
1963年1月東映『一心太助 男一匹道中記』沢島忠監督・中村錦之助主演

 『一心太助』の試写を見た美空ひばり母娘はこの作品を一目で気に入り、ひばりの次回作『ひばり捕物帖 かんざし小判』の監督を沢島にと会社に申し入れます。ミュージカル大好きな妻、高松の影響でミュージカルファンになっていた沢島は、ひばりのおきゃんな魅力があふれる明るく楽しい時代劇ミュージカル調に仕上げ、4月に公開すると大ヒット。二人の信頼に応えた沢島は、これ以降京撮でのひばり映画を数多く手掛け、ひばり親子との関係を深めました。

1958年4月東映『ひばり捕物帖 かんざし小判』沢島忠監督・美空ひばり主演
1959年7月東映『お染久松そよかぜ日傘』沢島忠監督・美空ひばり主演
1960年3月東映『ひばりの森の石松』沢島忠監督・美空ひばり主演
1962年1月東映『ひばり・チエミの弥次㐂多道中記 』沢島忠監督・美空ひばり主演

 錦之助と仲良くなり信頼も得た沢島は、『かんざし小判』に引き続き錦之助賀津雄のイケメン兄弟で、同様のパートミュージカル時代劇7月公開『殿さま弥次㐂多 怪談道中』を手掛けます。この作品も、いなせな二人のお茶目で軽やかな姿が評判を呼び、翌1959年正月公開『殿さま弥次㐂多 捕物道中』、1960年1月公開『殿さま弥次㐂多』と3作シリーズ化されました。

1958年7月東映『殿さま弥次喜多 怪談道中』沢島忠監督・中村錦之助主演
1959年10月東映『殿さま弥次鴕㐂多 捕物道中』沢島忠監督・中村錦之助主演
1960年1月東映『殿さま弥次㐂多』沢島忠監督・中村錦之助主演

 他、錦之助主演作では、1959年4月公開『お役者文七捕物暦 蜘蛛の巣屋敷』を監督。この作品は、錦之助の父3世中村時蔵が出演する歌舞伎舞台のシーンで『女暫』(おんなしばらく)を演じ、また、弟賀津雄に加え、長兄中村歌昇、次兄中村芝雀4世時蔵)、甥の中村米吉、それに片岡千恵蔵が華を添えた時蔵ファミリーの記念作でした。

1959年4月東映『お役者文七捕物暦 蜘蛛の巣屋敷』沢島忠監督・中村錦之助主演

 続いて、錦之助に次ぐ人気スター大川橋蔵の主演作1958年7月若君千両傘』を監督。

1958年7月東映『若君千両傘』沢島忠監督・大川橋蔵主演

 12月には初めて担当した橋蔵の人気シリーズ作品『若さま侍捕物帖 紅鶴屋敷』が公開されます。ロマンチックミステリーを目指したこの作品は、若さま侍シリーズでは異色作となっています。

1958年12月東映『若さま侍捕物帖 紅鶴屋敷}沢島忠監督・大川橋蔵主演

 大川主演作では、1960年9月公開『海賊八幡船』(かいぞくばはんせん)に取り組みました。九州ロケを敢行し、難しい海洋シーンや爆破シーンなど危険が伴う撮影の連続で大幅に予算を超髙過したこの大作に、後に東映社長となる髙岩淡が進行主任として参加しており、思い出のある作品となりました。

1960年9月東映『海賊八幡船』沢島忠監督・大川橋蔵主演

 1959年には、嵐寛寿郎の当たり役むっつり右門を東映の人気スター大友柳太朗で映画化する『右門捕物帖 片目の狼』を担当。3月に公開されると人気を呼び、シリーズ化しました。

1959年3月東映『右門捕物帖 片目の狼」沢島忠監督・大友柳太朗主演

 沢島は第2作1960年3月公開『右門捕物帖 地獄の風車』も監督し、大友主演東映版むっつり右門シリーズの基礎を作ります。

1960年3月東映『右門捕物帖 地獄の風車』沢島忠監督・大友柳太朗主演

 時代劇人気がピークを迎え、マンネリが言われ始めた1957年末に監督デビューした沢島忠は、翌1958年から、テンポの良い演出で中村錦之助美空ひばり大川橋蔵大友柳太朗東映次世代スターたちの新たな魅力を引き出しました

 テレビの台頭で映画人気が衰え、時代劇映画の危機が言われた1963年。ここのところ納得のいく作品作りができなかった沢島に、東撮所長の岡田茂から声がかかり、東撮で鶴田浩二主演『人生劇場』に取り組みます。
 原作者尾崎士郎の許可を得て、これまでの主人公青成瓢吉ではなく、飛車角を中心に据えた任侠映画として、3月人生劇場 飛車角』を公開したところ大ヒット。5月公開『人生劇場 続飛車角』、翌1964年3月人生劇場 新飛車角』とシリーズ化し、岡田に任侠映画の可能性を示しました

1963年3月東映『人生劇場 飛車角』沢島忠監督・鶴田浩二主演

 1964年早春、沢島は、美空ひばりの母から、東宝が経営する新宿コマ劇場5月末から始まる1か月にわたるひばり長期公演舞台演出を依頼されます。
 映画の斜陽もあり、舞台公演を中心に芸能活動をシフトする道を選んだひばり親子。沢島が初めて演出した晴れの門出は、開館以来の動員新記録を打ち立てる大ヒットとなり、ひばりの舞台進出に弾みをつけました。
 舞台の世界を経験した沢島は、続いて1965年正月明治座での東映歌舞伎夜の部、大川橋蔵主演芝居の演出を頼まれます。
 そして、京撮で鶴田主演『いれずみ判官』、ヤクザを否定した錦之助主演『股旅三人やくざ』を監督した後、再び、新宿コマひばり長期公演『お島千太郎』の演出を手掛けました。
 2か月にわたるこの舞台も大ヒットし、すぐに主演のひばりと林与一のコンビで映画化の話が決定。任侠映画全盛の京都撮影所で撮影され、9月に『新蛇姫様 お島千太郎』として公開、ヒットし、続いてこのコンビでの映画が決定します。
 また、この撮影の最中、原作の川口松太郎とひばり親子との話し合いで、今後ひばりの舞台公演の脚本、演出は極力沢島が担当することになりました。

1965年9月東映『新蛇姫様 お島千太郎』沢島忠監督・美空ひばり主演

 次作は、長谷川一夫の大ヒット作『雪之丞変化』をリメイク、任侠映画全盛もあり、1966年1月に『小判鮫 お役者仁義』と言うタイトルで公開されます。

1966年1月東映『小判鮫 お役者仁義』沢島忠監督・美空ひばり主演

 続いて、同じコンビで2月3月に撮影した『のれん一代 女侠』を4月に公開。4月からは御園座で雪之丞変化を素材に沢島脚本演出『お七かんざし』を公演しました。

1966年4月東映『のれん一代 女侠』沢島忠監督・美空ひばり主演

 前年レコード大賞を受賞した美空ひばり人気で、御園座公演、新宿コマ公演と大成功の後、沢島は松方弘樹主演『冒険大活劇 黄金の盗賊』を監督、そして、任侠映画中心の東映を去り、東宝系の東京映画に移籍します。

1966年12月東映『冒険大活劇 黄金の盗賊』沢島忠監督・松方弘樹主演

 その後、沢島はひばり、錦之助の舞台公演を中心に、他の俳優、歌手の舞台も含め、数多くの脚本、演出を手掛けて長きにわたり活躍しました。

沢島忠監督と中村錦之助
沢島忠監督東映作品一覧表

 ヤクザ錦之助を抒情的に描いた加藤泰に対し、明るく無鉄砲な錦之助を軽やかに描いた沢島忠。子供のアイドルから脱皮した若き日の中村錦之助の代表作を監督した二人の監督はともに時代劇を愛し、任侠映画への道をつけました。