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85. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」

第16節「東映テレビアニメの誕生 前編」

1956年8月発足した東映動画は、1958年10月に日本初の劇場用総天然色長編映画『白蛇伝』を公開し、それ以降、1959年『少年猿飛佐助』、1960年『西遊記』、1961年『安寿と厨子王丸』、1962年『アラビアンナイト・シンドバットの冒険』、1963年『わんぱく王子の大蛇退治』、『わんわん忠臣蔵』、1965年『ガリバーの宇宙旅行』と毎年1本のペースで劇場用長編カラーアニメ映画を次々と製作し、後に日本のアニメ界を牽引していく多くの人材を育成して行きました。

1956年10月『白蛇伝』藪下泰司監督 ©東映
1959年12月『少年猿飛佐助』藪下泰司監督 ©東映
1960年8月『西遊記』藪下泰司・ 手塚治虫監督 ©東映
1961年7月『安寿と厨子王丸』藪下泰司監督 ©東映
1962年7月『アラビアンナイト・シンドバットの冒険』藪下泰司監督 ©東映
1963年3月『わんぱく王子の大蛇退治』芹川有吾監督 ©東映
1963年12月『わんわん忠臣蔵』白川大作監督 ©東映
1965年3月『ガリバーの宇宙旅行』黒田昌郎監督 ©東映

1960年公開の『西遊記』の制作に、東映動画嘱託として参加した人気漫画家手塚治虫は、東映動画から人材をスカウト、また、漫画家仲間に声をかけ、1961年手塚治虫プロダクション動画部を設立、翌1962年1月に㈱虫プロダクションという名称でアニメ制作会社を発足させました。
 手塚率いる虫プロは、日本初の本格的テレビアニメシリーズ鉄腕アトム』を制作。この作品は、1963年1月1日から1966年12月31日までフジテレビCX)系にて放映され、40%を超える最高視聴率を記録するなど4年間全193話も続く人気番組となります。
 『鉄腕アトム』は、これまでのアニメ映画と違うテレビ独自のアニメ制作手法で制作、また、制作費をまかなうためキャラクターの商品化権の概念を確立したことで、制作と版権管理における日本のテレビアニメビジネスのモデルとなりました。
 そして、この作品を契機に様々なアニメ制作会社が誕生し、そこからテレビアニメ作品が次々と制作されます。劇場用アニメの先駆者東映動画もテレビアニメに参入しました。

① 大丸ピーコック劇場

東映動画テレビ初参入は、これまで製作してきた劇場版名作アニメのテレビ放映からはじまります。
1963年11月4日大丸デパートの提供で月曜19時よりNET系にて、大丸のシンボルマークにちなみ『ピーコック劇場』として、まずは『少年猿飛佐助』が毎回30分4週4話に分けて放送されました。この後も、『西遊記』、『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』など、1965年1月25日まで1年以上にわたり続きます。
NET系のこの放送枠は、『ピーコック劇場』終了後も、大丸の単独スポンサーが続き「ピーコック枠」と呼ばれました。

② 東映動画テレビアニメ初作品『狼少年ケン』

フジテレビは、大人気の『鉄腕アトム』に続き、徳間書店大人向け週刊誌『アサヒ芸能』連載小島功原作漫画『仙人部落』(1963/9/4~1964/2/23)をTCJ現・エイケン)でアニメ制作し、放映します。
TCJは、正式名称は日本テレビジョン株式会社という、外車輸入販売のヤナセが設立したテレビ受像機の輸入販売会社で、その中のアニメCMを制作していた部署が新たに映画部として独立、CM制作と共にテレビアニメ制作を手がけました。
 そして、『仙人部落』に続いてTCJが制作した、光文社月刊漫画誌『少年』連載の横山光輝原作フジテレビ系『鉄人28号』(1963/10/20~1965/5/27)が子供の人気を集め大ヒットします。この作品は江崎グリコがスポンサーで電通が企画した番組でした。
 CXの『鉄腕アトム』が人気を呼ぶ中、TBS講談社週刊少年マガジン』で人気の平井和正原作桑田次郎作画『8マン』に目をつけ、版権を取得しテレビアニメを企画し『仙人部落』『鉄人28号』を制作中のTCJがアニメ制作を手掛けます。平井和正が中心となって脚本にSF作家豊田有恒辻真先半村良などを集めたこの作品は、『エイトマン』(1963/11/7~1964/12/24)とタイトルを変え、「ふりかけ」の丸美屋がスポンサーで11月から放映を開始するやいなや『鉄人28号』に続く大ヒットとなりました。克美しげるが歌う主題歌「エイトマンのうた」もかっこよく、子供たちは、ふりかけの中に入っているエイトマンシールを集め、机やタンスに貼って親から怒られる子が続出しました。

 CX系『鉄腕アトム』、『鉄人28号』、TBS系『エイトマン』の大ヒットを追って、東映動画も、日本教育テレビNET)系にて、森永製菓提供で、手塚治虫の弟子月岡貞夫が原作『狼少年ケン』(1963/11/25~1965/8/16)を制作します。

1963年NET系『狼少年ケン』©東映アニメーション

 『狼少年ケン』は、狼に育てられたケンと彼を取り巻く動物たちのドラマで、NET東映動画にとって、ともに初のテレビオリジナルアニメ作品。可愛い動物たちが人気を呼び、全86話続くヒットアニメとなったことで、両社とも幸先の良いスタートを切ることができました。
 また、この作品の成功は、初めて森永製菓に提供スポンサーをお願いし広告代理業進出した東映商事(現・東映エージエンシ-)にとっても明るい門出となりました。
(76.③ テレビアニメ映画によるキャラクター商品化権ビジネスの始まりhttps://note.com/toei70th/n/nf0c1348146a5参照)

 『狼少年ケン』第1話「二本足の狼」は35ミリに引き伸ばされ、年末公開の劇場用長編アニメ映画『わんわん忠臣蔵』に併映されます。 

1963年12月『狼少年ケン』白川大作監督 ©東映アニメーション

 『狼少年ケン』の劇場での人気は高く、この後も、『西遊記』の再映、『隠密剣士』、『少年猿飛佐助』再映、『路傍の石』に併映され、テレビ人気番組の興行力の高さがわかりました。
 東映は、原価のかからない再映作品に、多少の経費でできるテレビアニメのブローアップ(画面の引き伸ばし)上映が、多額の経費が掛かる一般映画よりも興行収入が上がり、関連商品の売り上げも大きいことで、テレビアニメ映画興行新たな商機を見出し、春、夏、冬の学校の長期間の休みには子供向けのまんが映画を製作、上映することを決めます。

1964年3月発行 社内報『とうえい』第74号

③ 『少年忍者 風のフジ丸』から『まんが大行進』

 『狼少年ケン』が人気を博す中、東映動画は続いてNET系にて『少年忍者 風のフジ丸』(1964/6/7~1965/8/29)を制作、放映します。
 この作品は、白土三平の『忍者旋風』と講談社週刊少年マガジン』連載『風の石丸』を原作として企画されましたが、スポンサーの藤沢薬品工業にちなみ、タイトル名は石丸からフジ丸に代りました。

1964年NET系『少年忍者 風のフジ丸』©東映アニメーション

 第1話から28話まで、放送の最後にアイドル本間千代子が司会し、戸隠流第34代継承者初見良昭(はつみ まさあき)が忍術について紹介する「忍術千一夜」コーナーが設けられ、子供たちは実際の忍術に触れ、関心を呼びます。
 第29話からは白土の原作を離れ、オリジナルの勧善懲悪ストーリーになり、65話まで続き、当時興った忍者ブームの一翼を担いました。

 東映は、1964年7月21日から『まんが大行進』という冠をつけ、テレビの人気番組をまとめて映画館で興行します。
TCJ制作の『エイトマン』、『鉄人28号』に東映動画制作の『狼少年ケン』、『少年忍者風のフジ丸』番組かわりで国際放映制作の実写『忍者部隊月光』の4本立て興行は大成功しました。

1964年第1回『まんが大行進』

 『狼少年ケン』、『少年忍者 風のフジ丸』と人気アニメを連発した東映動画はさらにNET大丸ピーコック枠にて『宇宙パトロールホッパ』(1965/2/1~11/29)を制作します。

1965年NET系『宇宙パトロールホッパ』©東映アニメーション

 番組は講談社の月刊誌『ぼくら』で1964年11月号から1965年12月号までコミカライズされました。
 全44話続いたこの作品は第32話から『パトロール・ホッパ 宇宙っ子ジュン』とタイトルが代わりました。
 番組終了後の1965年1月10日から、月曜日19時半からの枠で既に始まっていた3匹の動物が活躍するコメディアニメ東映動画ハッスルパンチ』(1965/11/1~1966/4/25)が大丸ピーコック枠を引き継ぎます。

1965年NET系『ハッスルパンチ』©東映アニメーション

1965年7月夏休み第2回まんが大行進』が、TCJ制作『スーパージェッター』、『宇宙少年ソラン』、東映動画制作『狼少年ケン』、『少年忍者 風のフジ丸』、『宇宙パトロールホッパ』、当時起こった誘拐事件の実写ドキュメンタリー『噫(ああ)!吉展ちゃん』の6本立てで公開されました。

1965年第2回『まんが大行進』

 続く1965年冬休みに第3回『まんが大行進』が、東京ムービー製作、元東映動画スタッフ楠部大吉郎が設立したAプロダクション制作の藤子不二雄原作『オバケのQ太郎』に東映動画の劇場用長編アニメ『わんわん忠臣蔵』、『狼少年ケン』の3本立てにて公開されます。

1965年第3回『まんが大行進』

 こうして、東映動画のテレビアニメへの進出は順調に船出しました。

 次回は、続けてその後の東映動画テレビアニメについてご紹介いたします。