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㉖ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」

第5節「大衆娯楽主義 スターシステム」

 1956年から1960年まで、日本の映画館入場者数はおよそ10億人を越え、1958年には11億人をはるかに上回る数になり、日本映画は全盛期を迎えました。

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一般社団法人映画製作者連盟HP 過去データ一覧より

 1956年に年間配給収入で国内首位に立った東映は、その後も首位を堅持し、東宝、松竹、大映、日活、新東宝とともに日本映画の黄金期を牽引していきます。

 その中でも東宝、松竹、東映、大手三社の映画の作り方はそれぞれ特徴があり、東宝はプロデューサーが主導するプロデューサーシステム松竹は監督が主導するディレクターシステム東映はスターが主導するスターシステムと言われました。もちろん、どの会社も場合場合でプロデューサー、監督、スターの主導する割合は違っているのですが、比較するとその割合が強い会社ということです。

 東宝の歴代社長は映画製作出身ではなく、実業家であり、映画の内容には口を出さず、結果の数字を重視しました。東宝プロデューサーシステムは、1951年、公職追放から顧問として復帰した元常務でプロデューサーの森岩雄が翌年アメリカ視察後、製作本部長に返り咲き、導入しました。それは、藤本真澄、田中友幸、本木荘二郎などの各プロデューサーが主導して脚本家、監督とともに企画を作り上げた後、製作全般に責任をもって管理していくシステムで、各プロデューサーはお互いをライバルとして切磋琢磨、東宝映画を盛り上げたのでした。

 松竹は、震災後に若くして撮影所長に就任した後、長きにわたり映画部門を率いてきた城戸四郎が、1954年に社長となり、これまで一緒に松竹カラーを築いてきた名監督やその弟子の若手監督の企画を中心に、松竹ディレクターシステムを確立しました。そこで各監督同士がライバルとして競いあったのが、松竹映画でした。

 戦後誕生した東映の社長大川博は鉄道出身であり、経理を主とする経営と事業開発に専念、映画製作部門は予算を除いて映画プロデューサー・マキノ満男が主導しました。そして、マキノの要請で、東横映画の取締役だった片岡千恵蔵市川右太衛門両御大の協力で東映設立にこぎつけることができたこともあり、東映映画部門における両取締役の存在は大きく、東映スターシステムは東映誕生時から始まったとも言えるでしょう。二人は日本映画界を代表するスターであり、お互いをライバルとして意識しながらも東映時代劇を支える同志として切磋琢磨して東映の日本一に貢献したのでした。

 また、両御大は東映俳優陣のリーダーとして、1952年に剣会を創設したり、1958年には近代施設を備えた俳優会館の建設などを会社に促し、東映のスター受け入れ体制を整え、俳優がより上の地位を目指す切磋琢磨システムを作っていきます。

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東映コワイヤーズ 市川右太衛門・片岡千恵蔵

美空ひばり

 東映スターシステムを形成する数ある東映スターの頂点が両御大ならば女性スターの頂点は美空ひばりでした。

 1948年、福島通人が支配人をしていた横浜国際劇場に出演していた11才の美空ひばりは、そこで元「あきれたほういず」で当時人気絶頂の川田晴久に見いだされ、川田の指導で大きく育っていきました。

 福島のマネージメントによって、ひばりは様々な舞台だけでなく、1948年3月に東横映画のど自慢狂時代斎藤寅次郎監督にブギウギをうたう少女として映画デビュー後、松竹悲しき口笛』『東京キッド』に主演し主題歌ともども大ヒットをとばします。

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1948年『のど自慢狂時代』斎藤寅次郎監督 

 1951年、福島通人は自ら社長に「新芸術プロダクション(新芸プロ)」を設立し、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がそれぞれ就任しました。

 その年、ひばりは嵐寛寿郎主演松竹鞍馬天狗・角兵衛獅子』大曾根辰夫監督に杉作少年役で出演し大ヒット、ひばり杉作はその後『鞍馬天狗』2作品に出演します。

鞍馬天狗 角兵衛獅子

1951年『鞍馬天狗 角兵衛獅子』大曾根辰夫監督・嵐寛寿郎主演

 翌1952年2月ラジオ東京開局記念連続ラジオ劇『リンゴ園の少女』に主演し劇中で歌った『リンゴ追分』があっという間に70万枚を売り上げる大ヒットを記録、4月には歌手として歌舞伎座でリサイタルを開くほどの人気を集め、11月には新芸プロ製作松竹配給で主演映画化しました。

リンゴ園ポスター

1952年『リンゴ園の少女』島耕二監督・美空ひばり主演

 人気絶頂のひばりは松竹新東宝東宝日活他映画会社の枠を超えて映画出演を重ね、そこで歌う主題歌がヒットすることによって、銀幕スター&人気歌手としてのひばり人気を不動のものにしていきました。

 また、この年、松竹で市川右太衛門主演『月形半平太』内出好吉監督に出演、その後も、東映で『旗本退屈男』シリーズを始めとする右太衛門作品にも出演を重ね、ひばりは北大路の御大にも可愛がられました。

竜神岬 (2)

1963年『旗本退屈男 謎の竜神岬』佐々木康監督・市川右太衛門主演

 福島通人とひばり母娘は、1954年に歌舞伎界から中村錦之助を招き新芸プロ製作松竹配給『ひよどり草紙』内出好吉監督で映画界デビューさせ、その後、錦之助は福島のマネージメントで東映と専属契約を結び『笛吹童子』でブレイクしました。

 ひばりと錦之助は『唄しぐれ おしどり若衆』佐々木康監督、『八百屋お七 ふり袖月夜』松田定次監督、『青春航路 海の若人』瑞穂春海監督などで共演し、錦之助人気にも拍車がかかり、東映若手No.1スターとなっていきます。

TE29-33_唄しぐれ おしどり若衆

 1954年『唄しぐれ おしどり若衆』佐々木康監督・中村錦之助共演

TE29-66_八百屋お七 ふり袖月夜

1954年『八百屋お七 ふり袖月夜』松田定次監督・中村錦之助共演

 1955年、東映では錦之助との共演に続いて『大江戸千両囃子』佐々木康監督、『ふり袖侠艶録 』佐々木康監督、『ふり袖小天狗』内出好吉監督、で東千代之介と共演、千代之介とはその後も数多く作品を共にします。

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1955年『大江戸千両囃子』佐々木康監督・東千代之介共演

 また、1955年には、東宝ジャンケン娘』杉江敏男監督で江利チエミ雪村いづみと初共演、「三人娘」として大きな話題を呼び、翌年『ロマンス娘』翌々年『大当たり三色娘』と続き、同世代スター三人は友情を深めました。

 ひばりは、1955年12月公開『笛吹若武者』佐々木康監督で福島通人が歌舞伎界から東映に導いた大川橋蔵を相手役に抜擢、この作品は大川の映画デビュー作となり、1956年以降、京都撮影所において『ふり袖シリーズ』などで大川を相手役に出演を続けます。

ふり袖太鼓

1957年『ふり袖太鼓』萩原遼監督・大川橋蔵共演

 1957年にはいると、新芸プロに面接に来ていたところをマキノ満男にスカウトされた高倉健東京撮影所の『青い海原』小林恒夫監督から共演がはじまります。

TE33-2_娘十八御意見無用

1958年『娘十八ご意見無用』佐伯清監督・高倉健共演

 1958年6月にはひばりプロダクション設立7月には1963年まで続いた東映と専属契約を結び、京都撮影所里見浩太郎との共演もはじまります。

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 1959年『お染久松 そよ風日傘』沢島忠監督・里見浩太郎共演

 1959年からは東映オールスター映画に出演、片岡千恵蔵主演映画『江戸っ子判官とふり袖小僧』沢島忠監督にも助演、『ひばり』の冠を付けたシリーズ、『べらんめぇシリーズなど数多くの作品に主演しヒットを重ねて東映映画全盛期に大きく貢献しました。

TE34-63_血斗水滸伝 怒涛の対決

1959年『血斗水滸伝 怒涛の対決』佐々木康監督・市川右太衛門主演

 中村錦之助東千代之介大川橋蔵高倉健里見浩太郎、ひばりとの新人共演者は大スターへの道を歩み、美空ひばりは東映のスターシステム構築に大きな役割を果たしました。

TE33-63_ひばりの花形探偵合戦

1958年『ひばりの花形探偵合戦』佐々木康監督・高倉健共演

 美空ひばりは、1948年東横映画『のど自慢狂時代』から1966年東映最後の作品『のれん一代 女俠』までの18年間に、東京撮影所30作、京都撮影所63作の計93作に出演しました。

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1966年『のれん一代 女俠』沢島忠監督・林与一共演

 美空ひばりは生涯で170本の映画に出演、日本映画全盛時代に貢献した銀幕の大スターでした。