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66. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」

第10節「東映100年に向けて 次なる事業への取り組み ③」

 今回は、現在も広告業界で活動している広告代理店東映エージエンシーとCM制作会社東映シーエムの源流である東映商事と、東映商事の子会社でもあったPR映画制作会社日本産業映画センターをご紹介いたします。

⑥広告代理業・CM制作業:東映商事

 以前、このブログの⑳第3章第4節「大川博のM&A」で、大川が、劇場CMを開発した広告代理店旺映社をM&Aして1959年8月東映商事株式会社設立したことをお話いたしました。

1959年8月発行 社内報『とうえい』第20号

 劇場CMを始め、CM制作などに取り組み順調に成績を伸ばした東映商事1961年9月から貿易部門設立し、ベルギーのゲバルト社映画用フィルムの輸入を開始します。
 1962年5月、民放連主催の第10回民放大会賞テレビCM部門において、寿屋(現・サントリー)赤玉ポートワインのCMがフィルムCM金賞、松下電器(現・パナソニック)ナショナルジューサーのCMがフィルムCM銅賞を受賞しました。

1962年8月発行 社内報『とうえい』第52号
1962年8月発行 社内報『とうえい』第52号

 1963年の年頭あいさつで大川は、PR映画の製作増強について述べ、東映商事の努力を誉めます。

1963年1月発行 社内報『とうえい』第60号

 また、貿易事業の将来性についても語り、今後の発展への期待を述べました。

1963年1月発行 社内報『とうえい』第60号

 これを受けて、東映商事を率いる専務堀保治は、CM、PR映画の受注制作、そして貿易事業のより大いなる発展にむけての計画を述べ、関係各位により一層の支援と協力をお願いします。

1963年1月発行 社内報『とうえい』第60号

 1963年6月には貿易部門独立し、前回ご紹介した東映貿易が誕生します。
 11月、東映商事は、NET系で放送開始の東映動画初TVアニメ作品『狼少年ケン』から森永製菓をスポンサーとして広告代理店業に進出しました。

1963年11月発行 社内報『とうえい』第70号

 1964年年頭のあいさつで、さっそく大川は『狼少年ケン』をきっかけに始めた広告代理業の推進を掲げます。

1964年1月発行 社内報『とうえい』第72号

 そして、翌1965年の年頭では、広告代理業東映商事の主たる事業として位置づけ、全国規模の体制を作ったことを述べました。

1965年1月発行 社内報『とうえい』第83号

 その年9月1日味の素朝日麦酒富士製鉄日本鋼管野村証券東洋レーヨントヨタ自動車7社出資して1961年に設立したPR映画製作会社に経営参加し、株式会社日本産業映画センター東映商事の系列会社となります。 

1965年9月発行 社内報『とうえい』第90号

 東映商事自体の従業員も90名を超え、東映の広告代理店として大きく成長しました。 

1965年11月発行 社内報『とうえい』第92号

 1966年、年頭の所信で専務の堀は月商1億円達成と日本産業映画センターの再建をこの年の課題に掲げます。

1966年1月発行 社内報『とうえい』第94号

 東映商事はその後も安定した経営を続けますが、広告代理業の今後の成長を見越す大川は、1968年の年頭、より一層の奮起を期待して増資を行うことを発表します。

1968年1月発行 社内報『とうえい』第119号 
1968年3月発行 社内報『とうえい』第121号 

 そしてこの年5月、日本産業映画センターと共に初めて東映グループ内の1957年度下期優秀事業所に選ばれ、大川より表彰を受けました。

1968年5月発行 社内報『とうえい』第123号

 6月には第15回ヴェネツィア国際広告映画祭に入賞するなど海外での活動も積極的に広げていきます。

1968年6月発行 社内報『とうえい』第124号
1968年7月発行 社内報『とうえい』第125号

 その結果、11月、東映商事日本産業映画センターともに1968度上期優秀事業所に続けて選ばれました。

1968年11月発行 社内報『とうえい』第129号
1968年11月発行 社内報『とうえい』第129号

 1969年5月、順調に業績を伸ばした東映商事、日本産業映画センターは引き続き1968年度下期優秀事業所として表彰されます。

1969年5月発行 社内報『とうえい』第135号

 1969年10月1日、大川は広告代理店としての躍進を目指すために東映商事の称号を(株)東映エージエンシ-に変更。同時に東映動画のCM制作部門を独立させ、東映動画社長の山梨稔が兼務する東映シーエム(株)を設立しました。

1969年10月発行 社内報『とうえい』第139号
1969年10月発行 社内報『とうえい』第139号

 また、東映グループとのより密な連携をめざし、日本産業映画センター社長に東映商事副社長の堀保治が就任します。

1969年10月発行 社内報『とうえい』第139号

 併せて、11月1日に東映エージエンシ-社長を東映専務の坪井与が兼任し大川はエージエンシ-会長になることも発表。
 東映エージエンシ-坪井与東映シーエム山梨稔日本産業映画センター堀保治、大川の部下三人が率いる三社は、連携しつつもライバルとして広告、PR映画業界に乗り出しました。

1969年10月発行 社内報『とうえい』第139号

 10月に開催された第9回ACC・CMフェスティバルでは、東映エージエンシ-企画制作作品が初めて金賞に選ばれ、他の出品作も2作銀賞、あと2作秀作賞と計5作が表彰を受け、東映シーエム出品作も1作銀賞5作秀作賞に選ばれ、新たな門出を飾ります。 

1969年11月発行 社内報『とうえい』第140号
東映CM最近の受賞作 1969年10月発行 社内報『とうえい』第139号

 そして11月、1969年度上期東映グループ優秀事業所として東映エージエンシー日本産業映画センターが表彰されます。

1969年11月発行 社内報『とうえい』第140号

 1970年の年頭あいさつで大川は、東映シーエムの東映動画からの独立、日本産業映画センターの東映商事からの独立の理由について語りました。

1970年1月発行 社内報『とうえい』第142号

 1970年、年頭にあたり、東映エージエンシー坪井、東映シーエム山梨、日本産業映画センター堀、三人の新社長はそれぞれの方針を述べます。

1970年2月発行 社内報『とうえい』第143号
1970年2月発行 社内報『とうえい』第143号
1970年2月発行 社内報『とうえい』第143号

 3月に新事務所に移転した日本産業映画センターは、野村證券の依頼を受けて新たにカラービデオソフト制作を開始しました。

1970年4月発行 社内報『とうえい』第145号
1970年4月発行 社内報『とうえい』第145号

 5月には、前期に引き続き、東映エージエンシ-日本産業映画センターの両事業所、そして東映シーエムが努力賞として初めて1969年下期優秀事業所に選ばれ、表彰を受けます。

1970年5月発行 社内報『とうえい』第146号
1970年5月発行 社内報『とうえい』第146号
1970年5月発行 社内報『とうえい』第146号

 6月1日、カラービデオ制作を開始した日本産業映画センターは、ビデオ制作室を新設、新たな市場開拓に乗り出しました。

1970年6月発行 社内報『とうえい』第147号

 この月、ヴェネツィアで開催された第17回国際広告映画祭にて東映エージエンシ-作品2作入賞します。 

1970年7月発行 社内報『とうえい』第148号
1970年7月発行 社内報『とうえい』第148号

 そして、10月に行われた第10回ACC・CMフェスティバルでも、東映エージエンシ-東映シーエム、共にACC賞(優秀賞)に選ばれ表彰を受けました。
 両社とも広告賞の常連として、業界の中で着々と地位を築いていきます。

1970年10月発行 社内報『とうえい』第151号

 11月には、1966年の創業以来の累積赤字一掃した日本産業映画センターの出資会社7社から大川に感謝の記念品が贈呈されました。 

1970年11月発行 社内報『とうえい』第152号

 翌1971年5月には東映エージェンシー東映シーエムの両社が優秀事業所に選ばれ、日本産業映画センターとともに増々の発展が期待される中、8月大川博逝去しました。
 その後、東映エージェンシー、東映シーエムの両社は現在に至るまでグループの一員として東映を支えています。
 日本産業映画センターは、2004年5月末、38年間の役割を終え解散しました。