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77. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」

第12節「子供向け特撮キャラクター作品の発展 後編」

④ 東映東京制作所設立

 1965年8月1日、大川は第二東映事業で大きく膨らんだ人員を映画部門以外で活用するため、テレビ映画制作を行っている東映テレビ・プロダクション、前年に創設した東映京都テレビ・プロダクションとは別に、東西撮影所の映画を製作する部門から分割してテレビ映画や関連映像などの受注作品の制作を手掛ける制作所部門を両撮影所にそれぞれ新設します。

1965年8月発行 社内報『とうえい』第89号

 1965年12月6日、8月に分割した東西両撮影所の制作所部門を東映本体から独立させ、新たなテレビ映画制作プロダクションとして、株式会社東映東京制作所株式会社東映京都制作所を設立しました。

1965年12月発行 社内報『とうえい』第93号
1965年12月発行 社内報『とうえい』第93号
1965年12月発行 社内報『とうえい』第93号
1965年12月発行 社内報『とうえい』第93号

 その後、大きく発展していくテレビ界の追い風に乗り、東西の制作所は、NET以外の局作品を受注するための新たな受け皿となって共に事業を拡大して行きます。

⑤ 東京制作所のはじまりと特撮テレビ映画

 1960年6月に誕生した特殊技術課特撮チームは、映画ばかりでなく、新設の東映東京制作所を舞台に、テレビ映画でも活躍を始めました。
 まずは、10月放送開始東京制作所初のテレビ映画NET系『スパイキャッチャーJ3』(1965/10/7~1966/3/31)、主人公河津祐介演じるJ3が乗るシボレーコルベット・スティングレイが空を飛ぶシーンなどの特撮上村貞夫矢島信男特撮チームが担当しました。

1965年9月発行 社内報『とうえい』第90号
1965年9月発行 社内報『とうえい』第90号

 彼らは、当時日本に3台しかなかった1台1000万円もするコルベット・ステイングレイを米国から取り寄せ、まずは、様々な大きさ、形のプラスチック製ミニチュアを作りました。そして、それらのミニチュアを、ブルーに塗った壁面の前で走らせたり、ピアノ線で釣って空を飛ばし、フィルム処理時にブルーの背景を色抜きしたものに、別に撮影した実際の景色を合成するブルーバックの手法を使ってリアルな映像を生み出しました。

『スパイキャッチャーJ3』左からJ2江原真二郎・J1丹波哲郎・J3河津祐介

 『スパイキャッチャーJ3』は『EQミステリ・マガジン』元編集長で推理作家の都筑道夫原作脚本を書いた、日本版007や『ナポレオン・ソロ』を目指した国際スパイアクションで、話題を呼びましたが、特撮などに大変な経費がかかって大赤字になります。
 しかし、1959年に朝日新聞社が設立した朝日ソノプレス社(後・朝日ソノラマ)から主題歌のソノシート発売の話がきて商品化され、その会社が取引している少年マンガ雑誌の編集者を紹介してもらうことで後の子供向け作品マンガ原作権の獲得につながる端緒となりました。
 また、このテレビ映画は、これまでニュー東映作品深作欣二監督『ジャコ万と鉄』などで美術担当してきた近藤照男が、企画者として東京制作所に配属されてめて携わった作品であり、この経験を活かして近藤が、後に、国際スパイアクションテレビ映画の名作キイハンター』などスパイアクション作品を次々とプロデュースしていく契機となった作品でもあります。まさに『スパイキャッチャーJ3』こそ東京制作所スパイアクションの原点でした。

1965年9月発行 社内報『とうえい』第90号

 私も幼い頃、この番組を見て、かっこいいJ3の表情やポーズを真似た記憶があります。思い出に残る作品でした。

『スパイキャッチャーJ3』

⑥ マンガ原作子供向けファミリーコメディーのヒット

 続いて東映東京制作所は、NTV系にて、講談社週刊少年マガジン』連載森田拳次原作マンガ『丸出だめ夫』(1966/3/7~1967/2/27)を、保積ペペ主演にて制作。この子供向けロボット物ファミリーコメディーが初回視聴率19.8%、最高視聴率27%と大ヒットします。

『丸出だめ夫』

 この作品は、東京制作所に配属の後、東京電力のPR用ロボット「キロワット君」を見て『わんぱく大将とロボット君』という企画を考えていた企画者泊懋(とまりつとむ・後の東映動画社長) が、講談社の内田勝編集長にお願いして放映権を獲得したもので、森田の原作に自らの企画も取り入れて映像化しました。
 社内報『とうえい』に、この企画の立ち上がりから、番組提供スポンサーとなった札幌のフルヤ製菓とのやりとり、放送開始に至るまでの経緯と東京制作所企画者泊懋後・東映動画社長)の苦労が書かれています。

1966年2月発行 社内報『とうえい』第96号
1966年2月発行 社内報『とうえい』第96号
1966年2月発行 社内報『とうえい』第96号
1966年2月発行 社内報『とうえい』第96号
1966年2月発行 社内報『とうえい』第96号

 主役の丸出だめ夫を演じた保積ペペは、薬局に置かれたマスコットのカエルに「おめぇヘソねえじゃねぇか、ボク書いてやる」といたずら書きする風邪薬コルゲンコーワCMで人気を集めた売っ子の子役で、後に、村野武範主演『飛び出せ青春』の山本役で片桐役の剛達人とともに落ちこぼれ学生を演じ再び人気が出ました。だめ夫の父親・はげ照役十朱幸代の父十朱久雄が演じています。
 また、はげ照がだめ夫のために作った母親代わりのロボット、ボロットは頭はドラム缶、おなかはフォルクスワーゲンのボンネットだそうです。

『丸出だめ夫』保積ペペ(右)ボロット(中)十朱久雄(左)

 また、この号に、東映東京制作所の取材記事も掲載されており、当時の様子がうかがえます。

1966年2月発行 社内報『とうえい』第96号

⑦ 京都テレビプロの子供向けキャラクター現代劇

 『丸出だめ夫』にひと月遅れて、NET系にて光文社月刊少年』に連載の藤子不二雄Ⓐ原作のギャグマンガ『忍者ハットリくん』(1966/4/7~9/28)の放送が始まりました。この実写テレビ映画東映京都テレビプロ制作した初の現代劇で、主役のハットリくん役は双子の兄弟野村光徳、好徳が仮面をかぶって演じ、脇役のあらたま げたよ役に堺正章の父・コメディアン堺駿二、のうへのさいさい役で左卜全などが出演、人気作家の井上ひさしも脚本作りに参加しています。主題歌はアニメソングの女王、前川陽子が歌いました。
 視聴率も徐々に上昇、第3週目には22.4%を獲得するヒット番組となります。

1966年3月発行 社内報『とうえい』第97号

 しかし、この『忍者ハットリくん』を最後に、京撮では子供向けキャラクター現代劇テレビ映画が制作されることはありませんでした。

 1年後に再び企画された第2部忍者ハットリくん+忍者怪獣ジッポウ』(1967/8/3~1968/1/25)は東京撮影所東撮)の初テレビ映画作品として制作され、中学生の松坂慶子主人公藤野フジ太の姉役テレビデビューしました。主題歌は前川陽子、ハットリくんの声役の熊倉一夫に、以前紹介しましたヤングフレッシュがコーラスで参加しています。

『忍者ハットリくん+忍者怪獣ジッポウ』©藤子スタジオ・東映
1967年7月発行 社内報『とうえい』第113号
1967年7月発行 社内報『とうえい』第113号 ©藤子スタジオ・東映

 NET系木曜19時の30分枠で放映された『忍者ハットリくん』の後番組は水木しげる原作の『悪魔くん』(1966/10/8~1967/3/31)でした。このテレビ映画は、1954年4月、東映に入社し、京撮で助監督を13年間務めた後、1965年12月に本社テレビ部に配属された平山亨プロデューサー企画者として初めて手掛けた子供向け特撮ヒーローテレビ映画です。
 次回は『悪魔くん』から始まるペンネーム八手三郎(やつでさぶろう)こと平山亨の活躍を紹介いたします。