意識の構造4 テセウスの船

有名な思考実験にテセウスの船というのがあります。船が時間とともに古くなっていくなか、少しずつ材料を新しいものに変えていけば、やがて最初の制作時の材料は皆無となります。その場合、最初と今では同じ船と言えるのかどうか?

身体と意識の関係を考える時に、この問いへの回答は役立ちそうなので取り上げました。

例えば、出来てばっかりのその船が、何かの都合で砂浜にあげられて、「今日から海浜公園の遊具として使います!」となったとしましょう。この場合、船の材料は何一つ入れ替えられていないのに、船としての役割は失われており、公園遊具として機能しています。アリストテレスの四原因説を借りるなら、質料因が同じなだけで、その他の三つ、目的因、作業因、形相因すべてが変えられています。(一方、何年も使いながら材料(質料)だけが入れ替わった物は、他の三つに変化はありません)船を人間に置き換えてみると、細胞にも寿命が、あることに思い当たることでしょう。人の細胞は少しずつ生まれ変わります。分子単位で見れば、胃の粘膜なんか5時間くらいで入れ替わっているとも聞いています。

では、人において打ち上げられた船のような状態といえるのは、どんな時でしょうか?

仮に私の血管から4リットルの血液を抜き取り、それをまた血管に戻したとします。質料の変化はそんなに無くとも、大変な状態の変化が起きています。死んでいるわけです。生きている私は私ですが、死体の私は私ということができません。質料(材料・部品)以外の要素こそがオリジナルを維持させているとは、考えられないでしょうか?

「精神の発生」で古典の記述を追いました。神、精、魄、魂のいずれもが、刻一刻と入れ替わる質料を受け入れながら、元の身体の恒常性を維持させる機能を意味しています。

意識とは、「それらの働きの結果として、(たまたま)立ち現れてきたものを確認している状態」と考えられないでしょうか?

とはいえ、質料が機能に影響しないわけではありません。だからこそ食物や呼吸の量や質にこだわる考え方も出てくるわけです。どちらが大事とは言い切れませんが、どうも現代人は、質料ばかりに目が行きがちなんじゃないかと思っていまして、こんな記事を書いているわけです。

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