陰陽論9 精神の発生3

精と神の話です。タイトルの精神は、現代の言葉でいう精神であり、ここでの説明は古典や中医学にある精と神です。ややこしくてすみませんが、違う意味であることご承知ください。


故生之来謂之精両精相搏謂之神。随神往来者謂之魂。並精而出入者謂之魄。所以任物者謂之心。



精という文字は米偏と青からできています。同じ米偏に白で、粕という文字もありますね。内側が精で外側が粕ですが、それぞれ青くも白くもありません。むしろ精米した方が白いというのは奇妙です。なぜこうなるのでしょうか?「青」の前に「白」の説明をします。


米の重要な成分は色が白いところです。玄米を勧める人が、「白米は文字通り「粕」なのですよ」と言う場合がありますが、これはダジャレみたいなものです。確かに精白米はビタミンが少ないですが、酒粕というように、本来の目的から取り除かれた部分が粕です。逆に燃えるアルコールの多い部分が酒精です。これは古典の中にも出てきます。粕の「白」は色ではなく外側を意味しているわけです。脅迫や切迫の「迫」に「白」があるのと同じで、外から囲んだ状態です。このあたりのことは次に出てくる「魄」とも関係します。


本題の「青」にうつります。この字は上半分が最初は草冠だったのが、「生」になり、下半分は植物の藍を浸した「井」とか、銅のような金属の「丹」とかとも言われます。草にしても生にしても、極小から外へ発するイメージが捉えられます。「井」も「丹」であっても、そこから目的となるものを取り出す感じです。「白」が外側から囲むものなのに対し、「青」は中心から発せられるものだということです。だから米の精はエネルギーの元です。


人の精も活動の起点となる種みたいなものということになります。最初の「之来たりて生まれるが故に、之精と謂う」の意味となります。


続く「両精、相搏つ之神と謂う」ですが、我々にしたらしごく重要なことが、「えっ!そんだけ?」な状態でしかないので困ります。「相搏つ」は「相打つ」です。


精が両親から与えられた物質的な存在で、これが出合い接触することで生まれるのが「神」である、というような意味です。


「神」なのですが、この字は上から降りてくるメッセージ的なものと考えられます。「示」に「申」ですが、「申」は雷の形象とのことです。日本語でもカミ(上)ナリ(鳴り)と、言うくらいで、天から怒られている感じがあります。


そうなると、「神」は私を支配する私の元みたいなものに、なりそうです。いわゆるホムンクルスみたいな…


ホムンクルスってのは、「私の意識は脳内の活動」→「脳内に意識の主体がある」→「意識の主体はちっさなオッサン(ホムンクルス)みたいな」→「ちっさなオッサンにも脳があって」→…と永遠に続いてしまうアレです。


太古の人でも、このおかしさには気づいて当然なわけで、「神」がそういうものではないことは、この続きでわかるようになっています、多分ですが(笑)





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