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道くさ

学区から外れ、いわゆる越境通学をしていた小学校低学年の頃、バスの定期券を預かる姉と一緒に帰宅するようにと母から云われていた。




好んで越境通学をしていたわけではなかった.。行政の都合で通学していた小学校から帰宅するには、駅まで5分、駅の反対口のバス停から20分、最寄りのバス停を下車してから更に20分を歩き帰らねばならなかった。そのバスに乗っている時間が子ども心に何とも暇で面倒で大嫌いだった。だから小学校の校庭で遊び倒し、声を掛けられても帰ろうとしなかったのだ。そうして待ちきれなくなった姉は、弟を置き去りにするようになった。




弟を置き去りにした姉は、当初母の叱責を受けた。しかし姉はこれに猛然と反論。
「だって、いくら呼んでも哲ったら全然帰ろうとしないんだもん。」
そう、その通りである。一度置き去りにされてみたら、独り歩いてあっちへ行きこっちへ行きぷらぷら帰る時間が何とも楽しくて、やめられなくなっちゃったのだ。最初、被害者面で神妙にしていたが、実態が母にバレ開き直ったものだ。本当の被害者は姉なのであった。


そういえば、子どもたちは、今、道くさができているのだろうか。
学校という窮屈な社会を開放されて自宅までの自由時間。貴重な豊穣の刻だ。誰にも干渉されない予測不能な出会いと発見。そして山ほどの想像と創造を膨らませることのできる自分だけの時間。歌を歌ったり、ドラマをこしらえて自作自演してみたり。道くさはいろいろなものを与えてくれる小さな冒険である。小さな文化である。小さな革新の種である。




道くさが偶発的な出会いを与え、いつもと違う世界を見せてくれる。学校と習い事と自宅だけの閉ざされた世界から、自らの世界を押し広げる翼となるのだ。道くさの経験は大人になってからも人生を支えてくれるだろう。いい大学へ入り、いい就職先へ入り、社内の競争に勝ち、脇目も振らずに人生を走ってしまうと、進めば進むほど苦しくなってくるだろう。そんなとき、人生は道くさがあるからこそ楽しく充実するのだと気づかせてくれるにちがいない。




ぼくたち大人が今考えなければならないのは、子どもたちが安全に道くさできる時間と空間をどれだけ与えてあげられるか、である。云われた事を云われた通りに出来る、学校と習い事と家をそのままストレートに無駄なく往来してきたいわゆる「良い子」「優秀な子」は自分のモノを自分の世界を何も持っていない。自分だけの価値観と良心と勇気を持っていない。与えられた事にひたすら答えて来ただけだからだ。




そうやって育ってしまった大人が、どこにも行けなくなったこの社会で、右往左往している。自分の世界が無いから、与えてくれるトコロやモノを探すのだろう。
どうにか、子どもたちに、そして迷える大人たちに、豊潤な道くさしてもらえる環境をつくりたい。




道くさばかりしてきたぼくは、そんなことを考えている。

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