超短編小説 | 訪問者

「水江さん。おはようございます。今日も朝から掃き掃除ありがとうございます。」

「久美ちゃん。おはよう。これから講義かしら。」

「はい。一限目からで7時半には席についてないといけないので。眠くなりそうですが、がんばって聴いてきます!」

「そうなの。いつも偉いわね。じゃあ行ってらっしゃい。」

久美は大学2年生になったばかりだ。この街に引っ越して一人暮らしを始めたのもちょうど2年前。親からの援助とアルバイトのおかげで、古いけれども4階立てオートロック付きの賃貸マンションに住まわせてもらっている。

隣に住む水江さんは30代半ばの綺麗なお姉さんだ。とても優しく、笑顔が素敵な人だ。周りへの気配りに溢れた人で、管理人でもないのに自主的に玄関の外の掃き掃除もしてくれている。久美は大学へ自転車通学できる距離である事を活かして、午前中に履修を集中させているので、朝部屋を出る時に水江さんに出くわす事が多い。いつも親しく話してくれるので、すぐに仲良くなれた。若い女性の一人暮らしは危い事もあるし、私も苦労を経験してきたから困った事があればなんでも聞いてね。いつでも相談にのるよ。と言って下さっている。そう言ってもらえる人が側にいてくれるだけでとても心強かったが、まさかそんなに危険な目に遭う日が来るなんて全く考えていなかった。

大学2年の前期が終わろうとしている頃に、久美の周辺に不気味な男が度々現れるようになった。男は久美よりも少し背が高いくらいの小柄な体型で、いつも黒いコートを着ていた。コートに付いているフードで顔を隠していて口元より上を見ることができなかった。
男は久美の通学途中を狙って現れた。電信柱の影から覗いていたり、自転車を漕いでいると故意に前を通り過ぎてきたりと、やたら不気味な影をチラつかせてくる。
本当に怖かったので、マンションの管理人さんに伝えて、黒いコートの怪しい男がいたらストーカーだから絶対に中に入れないでもらうようにした。それから警察にも届出をして、何か起きたらすぐに動いてもらうようにお願いした。けれども親や友達、そして久美さんには心配かけたくないという思いから話せずにいた。

軽音サークルの練習が夜の9時に終わり、真っ暗な夜道を自転車で走っていたある夜のこと。ふと久美の近くにワゴン車が寄ってきて停車した。久美は身の危険を感じた。ワゴン車の中からフードを被った男が出てきた。そして恐怖で体が硬直している久美の所へ一気に駆け寄ってきて、右腕を掴んだのだった。久美は叫び声を上げ、掴まれた腕を思いっきり回転させた。握り方が浅かった為何とか振り解くことができた。久美はそのまま自転車を全速力で漕いで逃げ出した。

マンションに着いて自分の部屋に駆け込み、ドアに鍵をかけてチェーンを巻いた。心臓の鼓動がバクバク鳴っている。夜の10時を回っている。疲れてクタクタだった。(夜ご飯まだ食べてないけどどうしよう、明日も一限から授業あるからシャワーだけ浴びて寝てしまおうかな。)あの男はどうなったのだろうか?まさか追ってきたりはしていないか?(そうだ。明日警察に行ってこの話をしないと。)

ドンドン。部屋のドアを乱暴にノックする音が響いた。(え!もしかしてここまで追ってきたの!?)

久美ちゃーん。さっきものすごいスピードを出して自転車漕いでるの見たけど、何かあったの?大丈夫だった?

あ、水江さんの声だ。久美の不安はすぐに安心感に変わった。久美はドアへ駆け寄って扉を開けた。そこに立っていたのは、久美の腕を掴んだ黒いコートを纏ったフードを被った男だった。

ぎゃー!と久美は悲鳴を上げた。

何、久美ちゃんそんな大きい声を出して。

目の前の人がフードをあげると、そこにいたのは男ではなく水江さんだった。

びっくりするじゃないの、急に叫んだりして。そうそう。これデパートで買ってきた美味しいお饅頭よ。よかったら食べてね。

と久美の前に箱を差し出した。ありがとうございますと言ってそれを受け取って水江さんの顔を見たら、目の印象がいつもと違う様子だった。悲しんでいるようではない。どこか憂いを帯びているようで、さらにその奥で微かな忿りの火がチラチラと燃えているように見えたのだった。

目が覚めたら部屋のベッドの上にいた。どうやら昨晩、ストーカーに追われて部屋に着いた後でそのまま眠り込んでしまったらしい。時計を見ると7時だった。とりあえず直ぐに身支度をして大学へ向かった。

その後、管理人さんから黒いコートの男が別の女性へのストーカー容疑で逮捕されたと聞かされた。それに加えて、水江さんが急な転勤でもう引っ越されたということも教えられた。結局あの夢の後で会う機会が無かった。あまりに唐突な別れで胸の中に大きなシコリができたような、すっきりしない気分に苛まれた。しかし聞いたその日にドアポストの隅に追いやられて気付かずにいた小さな便箋を発見した。そこには水江と書かれて新しい住所と連絡先も記載されていた。久美はホッとした気持ちになった。すぐに連絡してみよう。今度会うまでに私は彼女の顔をハッキリと覚えていられるであろうか。

おしまい






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