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短編小説 | 水の形

水の形

1 プールサイド


水が怖い…。私がそう思うようになったのは、水泳を習い始めてから2年くらい経ってからだった。持ち前の積極性と運動神経のおかげで、泳ぎの方はメキメキと上達していった矢先の事だった。親も先生も友達も私がこのまま水泳を続けるだろうと期待していたので、突然やめたいと言い出した時は周りのみんなを困惑させてしまった。2年続けてみて一応泳げるようにはなったから、もっと色んなスポーツに挑戦してみたくなって…と表向きは前向きな理由を述べていたが、水への恐怖心が芽生えたからという本音は誰にも話さず胸にしまっていた。

「律子。そろそろ着くわよ。」
母が車の運転席から後部座席で眠り込んでいた私に声を掛けた。
「う〜」と言いながら私は伸びをして、狭い空間に無理な体勢で押し込めていた体を自由にした。今は夏の午後。外は炎天下の気温だ。母と私が車で向かっているのは市営プールだが、暑さを和らげるために泳ぎに行くのではない。市営プールで水泳のレッスンを受けに行っている弟の隆太をプールから迎えに行くためだった。朝の8時に家を出て片道30分弱の道のりを、週に3回徒歩で通っている。今日みたく買い物で車を出した時などは、弟のところに寄って拾って帰ることもある。

早く着きすぎたようだ。まだレッスンは続いていた。少しの間お待ちくださいね。と係の人に指示される。待っているのは退屈でしょうからと、プールサイドまで案内してもらった。隆太が懸命に泳ぐ姿が目に飛び込んできた。小学3年生の隆太は律子が水泳をやめた年よりも一年長く続いていた。先生の笛の合図を頼りに、前の子供と一定の間隔を保ちながら、隊列を組むようにして泳いでいる。
律子の記憶が水泳をやっていた頃にフラッシュバックした。25mプールの長さ、シャワーと目の消毒所、プールカードが置かれた台。大きな男子が飛び込み台から飛び込んで、水面が砕け散って水飛沫となって消えた。ふと何気なく台に置かれたプールカードが気になって、台まで歩いて行き、隆太のカードを手に取った。市が運営しているので在住の子供はレッスンを無料で受けられる。ただプールカードは毎回提出しなければならない。それだけなら良いのだが、なぜか1年間の有効期限がついていて切れる前に更新しなければならないという厄介な事務手続きをしなければならないのだ…
「今もまだやってるんだ。」変わらないしきたりに哀愁を感じながら律子はカードを元の場所に戻した。

「律子ー。そんな所で何してるのよ。勝手に触ったらダメなんじゃないの?」
母に呼ばれたので再び隆太の泳ぎを2人で見学する。
「お母さん、私ね、小2で水泳やめたでしょう。その本当の理由はね、水の中にいるのが怖くなっちゃったからなんだ。」
「何?急に深刻な話して。」
「久々にプール見て思い出しちゃったんだ。」
なぜこんな話をし出したんだろう。律子は湧き上がる言葉を堰き止めることができなかった。
「水って形がないでしょ。コップに入れば円柱になるし、茶碗に注げば茶碗の形になって、川を流れればどこまでも続く太かったり細かったりする線になる。」
「なんだか自分自身では何にもなれない私みたいだなって思えてきて。しかもそんな水に覆われてないといけないプールにいることがすごく恐ろしく思えてきたの。水の中に顔をつけていなくても息苦しくなってきて…ああ、もう私これ以上プールにいない方がいいのかなって思ったんだ。」
母は私の告白をただ黙って受け止めてくれていた。
「でもね、すごく未練もあったんだ。だって泳ぎは大好きだったから」
「そうよね。律子は泳ぎではいつも1番だったものね。」
「先生がタイム測ってそれをもとに級が決めらて、進級した時にはご褒美にパン屋さんでサーターアンダギー買ってくれたでしょう。それが本当に嬉しかったのよ。」
サーターアンダギーと言葉に出した瞬間に、あの甘さと食感が口の中に蘇ってきた。それと同時にあの頃全力で泳ぎ切った後に水面から顔を離した時に感じる汗とプールの消毒臭が入り混じった独特な香りが律子の嗅覚で再現された。賑やかな声がしたのでプールに目を移すと、レッスン後の子供達の集団がシャワーに向かって行くところだった。

2 平穏な波


その日からちょうど一週間が過ぎた日曜日、律子は朝早く目が覚めた。せっかく早起きしても何もやる事が無かったので、外の空気に触れようと散歩に出かけた。早朝だったためか人通りはなく、律子一人だけが静かな住宅地に取り残されたようだった。夏真っ盛りではあったが、気温は昼間のような炎天ではなく、空気も澄み切って心地よかった。周りはコンクリートでできた道路や建物、もしくは誰かの所有物として庭に咲いている草花ばかりだった。けれども律子自身は、まるで自然そのものであるかのような安らいだ気分になった。

さて、そろそろ家に戻ろう。引き返してしばらく歩いていると、プールに向かう途中の隆太とばったり出くわした。
「お姉ちゃん何してるのこんな朝早くに。」
「何となく散歩してただけよ。朝ごはん食べにこれから帰るとこよ。隆太はちゃんと食べたの?」
「食べたよ。じゃあ俺行くね。」
そう言って隆太はその場を後にしようとした。
「ねえ隆太。水泳は楽しい?」
律子は歩き去ろうとする竜太に向かって問いかけた。
「なんだよ。急に変なこと聞くなよ。」
隆太は歩みを止め振り返って答えた。
「あんたのプールカードの期限8月末日で切れるでしょう。あと1週間と少ししかないのに何で更新しないの?」
「…そんなのいつだってできるじゃん。めんどくさいからに決まってるだろう。」
余計な問答に付き合わされたくないと言わんばかりに、隆太の語気が少し強まった。
「あんた割とテキパキしてるからあんまり物事を先送りにしたりしないわよね。更新なんて隣の建物の事務所に出せばすぐやってもらえるし。」
カードの期限が切れたらその月はプールに入れなくなってしまう。プールに入りたくなかったから、更新忘れとシラを切るつもりでわざと期限が切れるのを待ってたんじゃない?
「まあ、そうだね、実はあまり気が進まなかったんだ。水泳、今後も続けた方がいいのか今悩んでる。」
「何か嫌なことでもあるの?」
隆太も自分と同じように悩みを抱えていたと知って、律子は弟にどうにかして胸の内を明かしてほしいと思った。
「何かってわけじゃないんだけど。漠然とした不安があってさ…」
「漠然とした不安って?」
「怖いんだよね…。人が…。」
律子は隆太が自分と似たような境遇であった事に驚いた。隆太の恐怖心は自分のものと種類が違うのだろうか?
「水泳のレッスンの時、みんな一列に並んで進むじゃん。先生の言う通りに黙ったまま。笛が鳴ったら泳いで、また列に並ぶ。」
その繰り返しが嫌になった。なんだか人間じゃなくて、人が集まって長い長いヘビかムカデみたいな別の生き物になってるような気がして。とそんな気持ち悪いことを言うものだから、律子は何とかして弟の不安を解消しなくてはという気持ちになった。けれどもどう寄り添えばいいのか分からなかった。
「たまにバタ足の水飛沫が顔にかかったり、水を蹴った足が誰かにぶつかったりするじゃん。それでも完全に無視かゴメンと一言謝って、後は何事も無かったかのように時間割り通りのメニューを続けるでしょう。あれが何か不気味に思えてきちゃったんだよね。」
隆太の心情があまりにも生々しかったため、律子は返す言葉を見つける事ができないまま、プールへと向かう彼の後姿を見送るしかなかった。

あんな別れ方をしてしまって大丈夫だろうか。話の内容からして今現在いじめを受けているということではないようなのでひとまずは安心した。けれども抽象的な恐怖心を払拭することの難しさが痛いほど分かる律子にとって、弟の気持ちに寄り添いきれない事は非常にもどかしかった。私も水が怖くて水泳をやめた。そう打ち明けるだけでも、隆太の気持ちはだいぶ軽くなったのではないか。水は私の心のように簡単に形を変える。それはきっと自分だけじゃなく他人の心もそうなのかもしれない。硬度は人それぞれでも私がはたらきかけることで、相手の心は様々な形に変化するのだろう。隆太にそう伝えたら良かったのかもしれない。いつかちゃんと言える日がくるだろうか。

3 衝突から、その先へ

律子に捕まってしまったせいでギリギリになってしまった。早く着替えないと準備体操が始まってしまう。隆太は市営プールの受付にいつもより遅れて到着した。いつも応対してくれるお姉さんにカードを渡す。「隆太くん、カードの有効期限が今月いっぱいまでね。分かってると思うけど早めに更新してね。」
ここでも姉と同じことを諭された。
「はい。レッスンが終わったら更新します。」
そう答えてロッカールームへ走り出そうとした。
「ちょっと待って。」
受付の人に呼び止められた。窓口に設置された引き出しのついた箱からチラシが一枚取り出されて、隆太に手渡された。
「これ9月に開催されるイベントなんだけど、良かったら参加してみない?」
チラシの中身は一泊2日で魚釣りに行くイベントの案内だった。本格的なルアーフィッシングで、経験者が付き添って教えてくれるので、初心者でも気軽に参加できるそう。市のスポーツ関連団体を中心に募集をかけているようだ。母に相談してみますと言って、手短にお礼を述べた後、再びロッカールームへ走り出した。

プールの中で今日も決められた時に決められた場所へと水を蹴って泳いでいく。笛が鳴って、目標地点まで泳いでいくと、先に到達して笛がなるのを待っている人の背中がそこにあった。ぶつかりそうになり、急ブレーキで何とか停まれた。もう少ししたらまた笛が鳴ってみんな順番にスタートしていく。隆太は意を決して、ポンポンと肩をたたいた。
「あのー。僕隆太っていうんだけど。君はー」















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