カナタ

東堂主催のアンソロジー 文系/理系アンソロジー 「雪がとけたらなにになる?」 に寄稿した作品です。


「松下じゃん、久しぶり」
 物理学系の図書室を後にして、普段はあまり立ち入らない北棟の廊下を借りた本を抱えながら歩いていたとき、ふいに後ろから私を呼び止める声がした。振り返ると、そこには根元まで髪を金色に染めた佐賀くんが立っていた。「久しぶり」と返しながら最後に彼の顔を見のがいつだったかを思い出す。たしか、まだ年度のはじめで、そのときの彼は黒髪だった。
「聞いたよ、松下、院試首席だったんだろ」
 誰に聞いたの、と問えば「教授が今年の首席は女子だって言ってたから、松下だろうなって」と佐賀くんは言った。もともと女子が少ない学部だから推測が容易であるとはいえ、佐賀くんがそれを私のことだと確信していてくれたことは少しうれしかった。
「佐賀くんは、就活どうだったの?」
「とっくに終わった。来年からトーキョー勤務」
 おめでとう、と言えば彼は「あたりまえだろ」とあたりまえのように言い、「でもその前に卒業しねえとだな、教授に目え付けられてるし」と肩を竦めた。
「単位は揃ってるんでしょ? 卒業できないなんてことあるの?」
「まあ、卒業旅行とかしててあんまラボ行ってねえしな。弓場さん俺の悪口ばっか言ってんじゃね?」
「どうだろうね。私は知らない。別れたから」
 私の言葉に、佐賀くんは一瞬目を丸くして「マジ?」と言い、そのあと、「俺は大正解だと思うぜ」と続けてからからと笑った。理由にはきっと興味がないだろうと思ったから言わなかったし、佐賀くんも聞いてはこないまま、彼は私が抱えていた本のタイトルに目を移した。健司の話題よりはそのタイトルのほうが佐賀くんの好奇心をくすぐったようで、彼は英語で書かれたそのタイトルを、見事なまでの日本語発音で読み上げた。
「なんで量子の本なんか持ってんの? 専門じゃねえだろ」
「専門科目の量子力学で、どうしても、一問だけ解けなかった問題があって。なんだか気になっちゃって、ずっと考えてる」
「ふうん。いま、その問題ある?」
「写真でよければ」
 スマートフォンで撮った問題の写真を佐賀くんに見せると、彼はすこし目を細めてしばらくそれを眺めたあと、「ああ」と呟いた。それから、彼は私の方を見やってすこし悪戯っぽく笑い、「解いてやろうか?」と言った。
 
 
***
 
 
「じゃあ、問E、だれか」
 黒板に向かっていた若い准教授の問いかけに、教室中が沈黙を返した。授業の前半に解かされた演習問題は、問Dまでは誘導に乗って解き進めれば比較的素直に答えが導けたものの、最後の問Eだけが手も足も出なかった。周りを見渡しても、いつもは自信満々に手を挙げる最前列の面々も首をかしげていて、先生は「間違っててもいいから」と声をかけながらあたりを見回していた。それでも誰も手を挙げないのに痺れを切らしてか、先生は演習の途中で回していた出席票を手に取って、そこから目についた名前を呼んだ。「田口くん」が、「わかりません」と答え、「渡辺くん」も「わかりません」と答えた。先生はすこし困ったように「そんなに難しかったかな」と呟き、「佐賀くん」を呼んだ。
 佐賀くん。演習形式のこの講義が始まってから十五分後に、コンビニのビニール袋を片手に前の扉から堂々と入ってきた彼のことを、私は名前だけ知っていた。佐賀奏多。スウェットにトレーナーに金髪で、いつもどこか猫背気味に歩いている。隣のクラスだから同じ必修科目は多いはずなのに、講義には気まぐれにしか顔を出さず、今日も出席票に名前を書いてからは教室の一番後ろの席でずっとカフェオレを飲みながら携帯を弄っていた。比較的地味な見た目の学生が多い理系のキャンパスでは、彼の金色の髪はよく目立った。
 最初に名前を呼ばれたとき、佐賀くんはまだ携帯に目を落としたままで、先生が「佐賀くん、いませんか」と二度目に声をかけたときにようやく顔を上げた。「問E、解けてる?」と、先生は佐賀くんに問う。彼は目の前に放り出されていた演習のプリントを手に取り、黒板に書かれたままの問AからDまでの答えを数秒眺め、その後無言で席を立った。机の間を歩く佐賀くんに教室中の視線が集まった。彼はそのどれにも視線を返さず、ただ黒板の前に立ち、左手でチョークを持って、残されたスペースに迷うことなく文字を書きつけた。教室中の注目がその左手が生む筆跡に向いていた。佐賀くんの書いた答えは、あまり長いものではなかった。さほど小さい文字でもなかったのに、黒板の縦半分にすっかり収まってしまう分量だ。先生に解答の解説を求められた佐賀くんは、どこか間延びした声で自分の書いた式をほとんどなぞるように読み上げた。途中で佐賀くんが口にした仮定を含む理論の名前を、私はこのときはじめて聞いた。
 一番前の席に座っていた学生が、おずおずと言った様子で佐賀くんに、上から二番目の式の表現は一部の条件では成立しないのではないかと問うた。佐賀くんはその式を眺め、「確かに」と呟いて指でぞんざいにその一部を消し、書き直したのちに「これでいい?」と聞き返した。質問をした学生は無言でうなずいた。
「この理論、もしかしてまだ量子Ⅱでやってなかった?」と先生が問う。
 さきほど佐賀くんに質問をしたのと同じ学生がうなずいた。「そうか、それは悪かった」と先生は答え、その後佐賀くんに「よく勉強しているね」と声をかけた。佐賀くんはそれには特に反応せず、いちばん後ろの席に戻ると、講義の残りの時間もまたずっとスマートフォンに目を落としていた。
 
*
 
 私がこの大学に入ってから出会った人物の中で、佐賀くんほど量子力学の似合わない存在はいないと思う。彼は講義には三回に一度も出ればいいほうだったし、授業の終わる十分前に教室に入ってきて、出席票に名前だけ書くことが平気な顔でできるような人物だった。彼の周りに集まる友人たちも、この学部の平均的な人物像からはずいぶんかけ離れた、派手な容姿と陽気な性格の持ち主がほとんどだった。一年生のときから彼らの姿は、講義の時間よりも、授業のない空き教室や、晴れの日のピロティのテーブルや、屋外の喫煙所で見かけることのほうが多かった。佐賀くんは、周りの友人からいつもカナタと呼ばれていた。同性からも異性からも区別なく下の名前で呼び捨てられるような人間は、間違いなく自分と違う世界の住人だと私は確信していた。
 
「ああ、俺そいつ知ってる。佐賀だろ? 同じ高校だった」
 二つ年上の同じ学部の恋人に佐賀くんの話をしたときに、返ってきたのは意外な反応だった。彼は――健司は、佐賀くんの名前を口にしたあと、すこし嫌そうに眉をひそめた。「委員会が一緒だったけど、まともに来てるとこ見たことなかった」と彼は言葉を添える。
「ああいうのに関わるなよな。不真面目な奴と付き合ってもいいことないだろ」
 そう言った健司は、昼ご飯をさっさと食べ終えて机の上に量子力学のテキストを広げ出した。この教室でいま、ご飯を食べているのは私と健司だけだった。健司は再来月に大学院の入学試験を控えていて、ここ数か月はその勉強に余念がない。彼は学年の中でも成績は良いほうらしく、性格としても、講義には毎回きちんと出席し、前のほうの席に座ってきちんと板書を取り、先生が質問を投げかけたらまっさきに答えるようなタイプだ。佐賀くんのことを気に入らないのも当然といえば当然だろう。
「ああいうのでも、人のノートで勉強してテストで点取れれば単位取れるってシステム、本当にどうにかしたほうがいいと思うんだよな」
 それは、健司が折に触れて言うことだった。わからないでもないと思う。真面目に努力した人間よりも、要領のいい人間のほうが得をすることを理不尽だと思う感覚は私の中にもある。
 私がお弁当の残りを食べている横で、健司は開いたテキストに書かれた英文とノートを見比べながら無言で数式を綴り続けていた。このあいだ講義で教わった範囲だな、と思った。彼はただしく勤勉な人間だったし、その努力でもってして自分の地位をしっかりと確立している。そしてその努力と、それによって得た能力が彼の誇りだ。だからこそ、ただしい努力なしに自分と同じ結果を掠め取っていくような人種のことを彼は許せないのだろう。
「ケンちゃん、そのテキスト嫌いって言ってなかったっけ」
 彼の開くテキストをぼんやりと眺めながらすこし前の会話を思い出してそう問うと、健司はノートから顔をあげないまま「嫌いだけど、毎年ここから院試に出るから」と答えた。彼が手元に置いているのは、数週間前、講義を担当する准教授が熱心に勧めていたタイトルだ。その話をしたとき、健司は「論が飛ぶし、解説の順番とかもめちゃくちゃでわかりづらい」とそれをこきおろしていた。
「俺が院試終わったら貸してやるよ。文子も、早いうちから復習しといたほうがいいよ」
「うん、そうだね。ありがとう」
 健司の言葉に私がうなずいたのと同時に、教室の前の扉が開く音が聞こえた。見れば、入ってきたのはついさきほどまで話題に上げていた金髪の彼だった。いつもと同じく、部屋着のような服装で、裸足にサンダルをひっかけて猫背で歩く彼は、教室の後ろの席に座っていた私と健司を見やると、一瞬そこで視線を止めたものの、それ以上の反応は見せずに私たちからはいちばん遠い席に座った。健司は佐賀くんを見てあからさまに嫌そうな表情を浮かべたけれど、私たちに背を向けて座っている佐賀くんがそれに気付くことはなさそうだった。
「俺、もう行くわ。文子は?」
「えっと、私は次授業あるから、ここでご飯食べてから行く」
 まだ三割ほど残った弁当箱を指しながらそう言うと、健司は「まだ食ってたのかよ」と呆れたように呟き、自分の荷物をまとめてさっさと教室を出て行ってしまった。健司が教室を出て行く後姿を、佐賀くんが眺めていることに気が付いた。彼は健司の足音が聞こえなくなったあとに席を立ち、まっすぐと私のほうに歩み寄ってきた。
「松下、弓場さんと付き合ってんだ?」
 私の前の席に腰かけた彼の手には、健司が持っていたのと同じテキストがあった。健司の名前を覚えていることは意外だった。佐賀くんの問いに肯定を返し、同じ高校だったんだってね、と言えば、「弓場さんは俺のこと嫌いだったと思うけど」と彼はそれを気にするそぶりもなく言ってのけた。
「なんで弓場さんなの?」
 佐賀くんが口にしたのは素直な問いだった。理由を問われるということは、理由がなければ健司とは付き合わないと思われているということだ。佐賀くんは私と目を合わせるでもなく、自動販売機で買える八十円のホットコーヒーのカップに口をつけて私の答えを待っていた。
「なんでって、言われても」
 待たれるに値するほどの答えが返せないことは自分でもわかっていた。誤魔化しを言うことにきっと意味はない。優しいからとか大事にしてくれるからだとか、ありきたりで無難で、それでいて心にもないことを口にしたとして、きっとわざわざ追及されることもないのだとは思う。ただ、興味を失われるだけだろう。彼が私のような人間に声をかける理由が、好奇心以外にあるとは思えなかった。
「俺が女だったら、絶対に弓場さんはねえわ」
 あのひとマウンティングやばそうじゃん、と彼は軽く笑った。たとえ言葉にできたとして、佐賀くんにはわからないだろう。性別だとか恋愛だとかそういうものを全部脇においたとしても、佐賀くんのようなひとに健司のようなひとは必要がない。
「でも、佐賀くんは私じゃないよ」
「そりゃそうだよ。だから、なんでだろうって思っただけ」
 結局具体的な答えを返さなかった私に、佐賀くんは案の定すぐに興味を失ったらしく、手元に持っていた量子力学の本を膝の上で開いた。先生のお勧めではあるものの、講義のテキストになっているわけではないその本を、佐賀くんが持っているのはすこし意外だった。ページにはところどころ鉛筆で走り書きのメモが残されている。
「その本、面白い?」
 佐賀くんは本から視線を上げないまま、しごく当たり前のように「うん」と答えた。
「基本原理のとこの説明がちゃんとしてるし、最後まで話が繋がってるから、読むとめっちゃ量子わかったわって気分になる」
「最後まで全部読んだの?」
「一年の冬に、市役所で宿直のバイトしてたんだけど、暇なときえげつねえ暇だったから、これ系のやつはなんとなくいろいろ読んだ」
 さらりと言ってのけたその言葉に私が一瞬目を丸くしていると、佐賀くんは薄く笑って、「意外?」と聞いてきた。
「俺、わりと頭いいんだぜ」
 それを自分で言えてしまうことが、そして私にそれを否定する術がないことが、羨ましかったのか悔しかったのかうまく判別はつかなかった。「知ってる」と返すと佐賀くんはまた小さく笑い、「そりゃどうも」と答えてまたテキストの英文へと戻っていった。
 
**
 
 佐賀くんが大学に残らないのだということを知ったのは、三年の冬、研究室配属の手続きのために訪れた事務室で、髪を真っ黒に染めた彼に出くわしたときだった。そのとき私は一目では彼が佐賀くんだとわからなかった。気が付いたのは、彼の方から私に声をかけてきたからだ。「松下じゃん」と言って、佐賀くんは私が持っていた配属希望の書類を勝手に覗き込んできた。
「佐賀くん、髪黒くしたんだね」
 私がそう口にすると、彼はあっけらかんと「シューカツ」と答えた。「院に行かないんだ」と言った私に対して、彼はすこし悪戯っぽく笑い、「文系就職するつもりだし」と答えた。
「どうして? 就きたい仕事があるの?」
「いや? でも結局文系職のが稼げんじゃん」
「そうなのかな。なんだか、勿体ない気がしちゃうけど」
 口を突いて出たその言葉に含まれていた自分の感情は、私自身あまりはっきりしなかった。純粋に、佐賀くんほど頭のいい人が、それを活かさない道を選ぶことを意外に思った気持ちもある。その裏に、きっと一抹の嫉妬心があったようにも思えた。このひとは私よりもずっと頭がいいのに、それをいとも簡単に捨てて行くのだ。私が欲しかったものは、彼にとっては彼の人生に必要なものではない。そのことがどこか悔しいような、衝撃であるような、虚しいような、そう言った名状しがたい、けれどポジティブとはとても言えない感情だ。
「まあ、まともなとこ内定出なかったら院試受けて二年稼ぐわ」
 飄々とそう言ってのけた彼は、私より一足早く配属希望の書類を提出して事務室を後にした。後ろから覗き込めてしまったその書類に書かれていたのは、健司が所属しているのと同じ理論物理学の研究室の名前だった。佐賀くんはそういうひとだったな、と思った。健司は彼のことが嫌いだと言うけれど、彼はおそらく、嫌われていたってまったく気にもならないくらい健司になんの興味もない。それを一瞬だけ羨ましいと思ってしまったあと、私はそういう人間になりたかったのだろうか、と自問した。結局その答えは出ないままだった。
 
 
***
 
 
 佐賀くんの左手が、講義のプリントの裏紙につらつらと数式を書き並べていく。ときおりスマホでなにかを検索しながら、私が最初の五行より先に行けなかった問題を、佐賀くんはあまりに淀みなく解き明かしていった。私が置けなかった仮定を置いて、その正当性を隙なく示して、彼はほんの十五分でその問題に答えを与えてしまった。私の口からこぼれ出た「すごいね」という安直な誉め言葉に、佐賀くんはすこし得意げに「だろ」と答えた。
「佐賀くんが院試受けてたら首席取れてたかな」
「絶対無理。俺電磁気ぱっぱらぱーだもん」
「でも、やっぱりすごいよ。いくらもともと頭良くたって、ちゃんと勉強してないと、こんなの解けるようにならないし。すごいと、思うよ」
 思わず熱の入った私の言葉に、佐賀くんは今度は同調しなかった。手に持ったペンを指の上でくるくると回して、彼は珍しく言葉を探すように黙り込んで視線を宙にやった。それから、わずかに目を伏せて、小さく息を吐き、「別に」と呟いた。
「問題が解けるだけだよ」と佐賀くんは言った。
 自嘲のようでもなかったけれど、静かな声だった。彼の左手が裏紙に書き並べた丸い文字は、アルファベットと記号とギリシャ文字だらけの数式にはどこか不釣り合いだった。
 こ目の前にあるこの問いは、ただ頭がいいだけでは解けない。その答えに至るまでの道筋に眠るい法則と概念は、数多の天才たちが積み上げてきた論理の上に根を張っている。私たちは、それをゼロから掘り起こさなくてもいい代わりに、知らなければならないのだ。論理や思考力のように語られる数学や物理の世界にも、自分ひとりで辿りつくことのできない起点はいくらでもあって、そこにあるもの、積まれてきたものは、知ろうとしなければその先には行けない。
 佐賀くんがこの問題を解けるということは、彼がこれを知ろうとしたことがあるということだ。私たちはだれひとり、おのずから量子力学の概念を獲得しない。少なくとも、授業でろくに姿を見たことのないこのひとは、どこかでそれを自分のうちに得ようとしたことがあるし、私よりずっと鮮やかにそれを自分のものにしていたのだ。だれに語るでもなく、それをことさらに誇るでもなく。
「松下、俺のことすげえやつだと思いすぎだよ」
 佐賀くんはそう言って笑った。佐賀くんでも、そういうことを言うのか、と思った。
「でも、頭いいのは事実でしょ」
「結局さ、松下も、俺がバカそうな見た目でこういう態度なわりにちょっと勉強できるからなんかすごそうな気がしてるだけで、俺が弓場さんみてえな格好と性格してたら、絶対そんな期待してないって」
 俺のが弓場さんより賢いのはほんとかもだけど、と笑い飛ばして、佐賀くんは椅子の背に寄りかかった。そんなことないと返したかったけれど、どうしてか言葉がすぐには出てこなくて、即答できなかったが最後、どこにもタイミングがなかった。
「この程度で別にもうこれ以上いいやって思えちまうから、俺はぜんぜんすげえやつじゃないよ」
 佐賀くんは賢いから、この程度がこの世界のまだほんの始まりでしかないことをわかっている。それでも、あなたなら、この先だって、他のだれかよりも先を、私たちが頑張っても切り開けない道の先を行けるのではないかと思うことは、なにか間違ったことなのだろうか。
「松下はわかってんじゃん。俺みたいのがやってけるほど、能力とか才能とかそういうのだけで生きれる世界じゃないって」
 こうやって静かにものを言うとき、佐賀くんは悲しいまでに聡明だった。この、桁外れとまではいかなくとも明らかに人並み外れた能力は、これからこのひとが行く道で、このひとを、佐賀くんを、幸福にするのだろうか。
 私にも健司にもないものを持っていて、それを惜しげもなく捨てていく彼をうらやむことは許されるのだろうか。きっと愚かなことではないのだ。彼は私たちよりずっと賢い。そうであってほしい。それでこのひとが、私たちより幸福にならないのなら、私がその人生をもらいたかったよと呟くのは、やっぱり傲慢だろうか。
 
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 学部の卒業式が終わったあと、規定の時間が終わる直前に学位記を受け取りに教室に駆け込んだ。学位記はほとんどが受け取られ終わったあとだったようだったけれど、机の上にはまだ何通かがぽつぽつと残されていた。事務員さんに学生証を提示して、大学の名前と校章が箔押しで印字された紺色のカバーに収められた、一枚の薄い紙を受け取る。私の四年間は、いまこの紙一枚に証明された。そのことに覚えた感慨は、たぶん大したものではなかったけれど、まったくなにも思わないわけでもなかった。
 私の学位記があった列に取り残された一通に、佐賀くんの名前があった。佐賀奏多。彼がカナタと呼ばれるところを、そういえば最近聞いていなかった。卒業式の会場でも、記念撮影に人気のスポットでも、学部や専攻の皆が集まる場所でも、佐賀くんの姿を見ていない。明日からもまた同じ研究室に通い続けるくせに、卒業だとかいうものを口実に晴れ着を着て写真を撮っている私と違って、佐賀くんはもう来月からはこの建物に足を踏み入れることすらできなくなるというのに。
 そうは思いつつも、彼がそういったことに感傷や未練を覚えはしないだろうということも簡単に想像がついた。私からはいちばん遠い人種だと思っていた彼のことが、結局、もう二度と会わないのだろうと確信を持てた今日という日までずっと頭の端にあった。私がいまこんな風に彼のことを思い出しているということを知ったら、佐賀くんはなんと思うだろうか。喜ばれはしないだろうな、という確信くらいはあった。その確信を持ったまま、私は教室を後にした。
 ただ生きるだけのことはだれにだってできる。それだけのことで幸福になれないのは私たちが傲慢だからだ。自分という個人が生きていくのにふさわしい道はどこかに用意されていて、それを慎重に選ばなければならないと思っている。自分たちに用意された幸福は、もっと劇的なものだと思いたがっている。だから、私は佐賀くんにはなれない。あんなふうにはなれない。あれだけのものを持っていてなお、自分の可能性に見切りをつけてしまうことは私にはできない。これはきっと、ただのひがみで、追憶で、彼の捨てた未来への弔辞だ。
 卒業のその日、かつて彼をカナタと呼んでいたはずのだれからも、佐賀くんの名前を聞かなかった。きっと仲が良かったのだろう他のだれかではなくて、いま、私だけが彼のことを思い出しているのだという実感が、すこしだけ、ほんとうにすこしだけ、心地よかった。


2020.01.19 初出 (文系/理系アンソロジー 「雪がとけたらなにになる?」)
 

今後の創作活動のため、すこしでもご支援を賜れましたら光栄に存じます。どうぞよろしくお願いいたします。