ユートピアには生きられない

綿津見様主催 アンソロジー光 に寄稿した作品です。

 成人式以来五年ぶりに開かれた中学と高校――私の通っていた学校は中高一貫校だった――の同窓会で、テーブルの一番隅の席に座って氷の融け切ったカシスオレンジをずっと手元に携えている彼女の名前を思い出したのは、幹事の竹中くんが「そろそろ出ようか」と皆に声をかけ始めたときだった。ほとんどのメンバーが五年ぶりの再会とあって、庶民的なレストランでの開催だったわりにはだれもが普段よりすこし良い格好をしていた中で、彼女は特別派手に着飾るわけでもなく、目を引くほど地味なわけでもなく、ただ、私たちの年齢の女性として平均的な服装と化粧をして場の端っこに腰かけていた。あのときのエルコスだった子だ、というのは最初から気付いていたし、ずっと目で追ってもいたのだけれど、名前の記憶があいまいだったから声をかけられずにいたのだ。
 席を立ったあと、彼女はそばにいた数人と軽い会話を交わし、ふとこちらに視線を向けてきた。そして私のほうに歩み寄り、「久しぶりだね」と首を傾げた。「彩ちゃん」と、私はさきほど思い出したばかりの彼女の名前を呼んだ。苗字で呼んでいたのか下の名前だったのかちょっとだけ自信がなかったのだけれど、彼女が特段怪訝そうな顔もせず「元気だった?」と返してきたので、たぶん正解だったのだと思う。
「みんなに会うのすごく久しぶり」と彩ちゃんは微笑んで、春物の薄手のコートをハンガーから手に取った。
「そっか、そしたら彩ちゃんは中学卒業以来だもんね。十年ぶり?」
「うん。成人式のときの同窓会も来たかったんだけど、予定が合わなくて」
 がやがやとした会話があちらこちらで交わされる中で、彩ちゃんの声は大きいわけではないけれどよく通った。「そうなんだ」と相槌を打ちながら、意外だなと思ったことは声に出さなかった。中学で入学した生徒の九割がそのまま附属の高校に進学する私たちの母校で、彩ちゃんは残りの一割だったからだ。彩ちゃんの人生の中に、まだ私たちの存在が残っていたのだということがすこし不思議だった。けれど、それをわざわざ問うことが許されるほど、私は彩ちゃんに近いところにいたわけではなかった。最後に会ったのが十年前であるとはいえ、名前を思い出すのに時間がかかるほどだ。
「那月ちゃんに、会えたらいいなって思ってたんだ」
 彩ちゃんが、こうやって声をかけてくるほど私のことをはっきりと覚えていたのだということにも、違和感がないわけではなかった。けれどその反面、そのことに関しては存外すんなりと納得できるような心持ちでもいた。十年の月日に、名前や顔が希釈されて記憶の片隅に追いやられてしまっても、彼女の存在そのものは私のなかにも驚くほどはっきりと残っていた。それが十年ぶりに彩ちゃん――深山彩という名前を得て私の目の前に現れたという実感のほうが、私にとってはよほど大事だった。
「うん、私もだよ」
 だから、その言葉が口をついたのだって、自然なことだし一分の疑いようもなく本心だ。彩ちゃんは私のその返事を聞いて、目を細めて、少しだけ首をかしげて微笑んだ。
 竹中くんが二次会に行くメンバーを募っている中、私と彩ちゃんは他のひとたちに声をかけられる前にそれぞれそっとその場を抜け出して、一次会のお店からすこし離れたところで再び合流した。別の角を曲がってきて私の前に現れた彩ちゃんは、私を見つけると、ふふ、と声を上げて目を細めた。「那月ちゃんがおんなじ気持ちでよかった」とさらりと言ってのけた彼女は、たしかに十年昔もそういうひとだった。私は、「そうだね」と答えて彩ちゃんの横に並んだ。
「どこか、お店を探す?」
 人通りのない道を、あてもなく会話もなく並んで歩いている状況の違和感に耐えられずに私は彩ちゃんに声をかけたけれど、彩ちゃんはきょとんとした顔でこちらを向いた。「那月ちゃんが、そのほうがいいなら」と彼女は答えた。ずるい言い方だ、と思った。メイクも服装もおおよそ無難ないでたちの彩ちゃんが、真っ黒なエナメルのピンヒールを履いていたことにそのとき気が付いた。アスファルトを歩くのには向かない靴だろうと思ったけれど、彩ちゃんはひとつも気にするそぶりを見せずに細い踵でこつこつと音を鳴らして歩いていた。
「でも、こうやって歩いていたほうが、あのときみたいな感じがしていいかな」
 その足音の隙間、彩ちゃんは静かな声でそう言った。あのときという言葉に、少し心臓のあたりがぞわりとした。ずっと深いところ、彩ちゃんの容姿や名前や喋り方や、そういった記憶なんかよりもずっと深いところに眠っていたものが、その時間に掘り起こされる。「あのとき、」とそのまま言葉を反芻すると、彩ちゃんはわずかに歩みを緩めて、「覚えてる?」と私に問うた。
「中学の修学旅行の、夜の自由行動の時間に、二人で迷子になったの」
 ほんとうは即答だってできたのだけれど、あえてすこしだけ時間をおいてから、「覚えているよ」と答えた。彩ちゃんはどこかほっとしたように眉を下げた。そもそも、私たちのあいだに思い出と呼べるものはほとんどそれひとつしかない。彩ちゃんとは三年間クラスが違ったし、部活も違ったし、共通の友人もあまりいなかった。彼女と私の中学生活はお互いにほとんど重なることがなかったし、彩ちゃんが別の高校に行ってしまってからは、噂ですら彼女の名前を聞くことはなかったくらいだ。そんな私たちの毎日が唯一わかりやすく交点を持っていたのが、修学旅行の二日目の夜だった。あの日も、こんなふうに、どこに向かうでもなく二人で並んで歩いていた。
「彩ちゃん、いまなにしてるの?」
「私、まだ学生なの。大学院に進んだから」
「え、そうなんだ。研究者になるの?」
「なれたらいいなとは思うけど」
 彩ちゃんがさらっとそう答えてのけたことにはかなり驚いた。私たちのいた中学は、レベルで言えば中の上くらいで、将来学問の世界に身を置くほどできるひとの話などほとんど聞いたことがなかった。彩ちゃんそんなに成績よかったっけ、と思ったけれど、その情報は記憶にはなかった。ただ、学年順位の高い人間の噂はどこかから聞くものだし、その中に彩ちゃんの名前を聞いたことがなかったことは確かだと思う。
「大変だろうなってのは、知ってるよ。大学の友だちにもいるし」
「そうなんだ。那月ちゃんは考えなかったの? 頭良かったし、那月ちゃんならもしかしたらって少しだけ思ってたんだけど」
「私にはできないよ。もっと堅実な道選んだし。だから、すごいと思う」
 そう首を振ると、彩ちゃんは「そっか」とだけ言って視線を自分の足元に向けた。
「たくさんのことが、できる人間じゃないから」と彩ちゃんは呟いた。
「それであの日も迷子になったし、いまもこうやってしかいられないし、やっぱりあんまり、自分で選んだことなかったかな、って思うな」
「それは、悪いことなのかな」
「そう思ってるわけじゃないよ。でも、選ばなきゃいけないっていうのは難しいことだと思う」
 やっぱりよく通る声で、彩ちゃんはそう言った。言葉の真意を探るだとかいうのは無駄だということを知っていた。彼女は嘘をつかないし、ほんとうのことしか言えない。この十年でその根本が変わっていないとしたらそういう人間だ。そして、きっと変わってなどいないのだろうとも思った。彼女のなにを知っているわけでもなくても、そう思った。
「彩ちゃん、変わらないね」
 思わず口から飛び出したその言葉を、彩ちゃんは知っていたかのように受け止めて、返事はしなかったけれど微笑んだ。私が彩ちゃんを初めて見たのは、体育館に並べられたパイプ椅子の上でだった。彩ちゃんは舞台の上にいた。スポットライトの下で、エルリック・コスモスを演じていた。十年経っても、舞台から降りても、彩ちゃんはやっぱりあのときのエルコスのままだった。名前よりも容姿よりも、その姿のほうをずっとよく覚えていた。
「それは、いい意味?」と、ふいに彩ちゃんが聞いた。「もちろん」とすぐに返した。
「那月ちゃんが、そう言ってくれるひとで私はうれしい」
 目を細めて彩ちゃんがそう言ったあと、会話はほとんど続かなかった。近況の話をほんの少ししたくらいだ。特別相談したわけではなかったけれど、二人の足並みは自然と、同窓会会場の最寄りを通り過ぎ、そのひとつ隣の駅へと向かっていた。結局、私と彩ちゃんが一緒にいたのは、その地下鉄一駅分とすこしのあいだの距離だけだった。
 彩ちゃんは駅の改札には入ってこなかった。パスケースを改札に押し当てた私を、「じゃあね」と言って見送った。「また会おうね」と言おうとして、やめた。この先彼女に会おうとがあろうとなかろうと、たぶんなにも変わらないと思った。
 「うん」と返して背を向けたあと、踵を返した彩ちゃんが歩き去るのが、ハイヒールの踵の音になって聞こえてきた。

**

 修学旅行の二日目には夜間外出が許可されていたものの、京都は家族旅行で昨年来たばかりだったから、私は特に行きたい場所もなかった。、だれかのグループにいれてもらうか、宿に残って休んでいるかのどちらにしようと考えていたところ、同じクラスの羽貫くんと矢場さんが、申請を一緒に出してほしいと頼み込んできた。二人で出かけたいのだけれど、許可をもらうには三人以上のグループを作る必要があったからだ。この二人って付き合ってたんだ、と思いつつ、断る理由もなかったから「いいよ」と言った。矢場さんとはよく話をする仲だったから、先生にも特別疑われることもなく申請は通り、三人で宿を出て少し歩いたところで二人とは別れた。付き合っていることは内緒にしているから、言わないでほしいと矢場さんに頼まれた。なるほど、そこを信頼しての人選だったのか、と思いつつうなずいた。
「笹原さん?」
 やることもなしに大通りの一本横の道をひとりでぼんやりと歩いていたら、背中から私の名前を呼ぶ声が聞こえた。全然心当たりのない声だったから背が跳ねて、おそるおそる振り向くと、そこにいたのも予想だにしない人物だった。腰まで伸びる長い黒髪と、とりたてて派手でも息を呑むほどきれいなわけでもないけれど整った容姿をした彼女のことを、私は知らないわけではなかった。けれど、こんなところで声をかけられる相手だと思ったことはなかった。あからさまに怪訝そうな顔をしていたのだろう、彼女は慌てたように顔の前で手を振って、「ごめんなさい、いきなり」と言った。
「迷子になっちゃったの。それで、同じ学校のひといないかなって探していたから。笹原さんは、だれかと一緒に来てるの?」
 私が自分のことを知っている前提で話を進める彼女に、私はどこかでこのひとと話をしたことがあっただろうかと記憶をたぐったけれど、思い当たる節はひとつもなかった。C組の深山彩――演劇部のエースだった彼女は、文字通りスポットライトの当たる側の人間だ。アイドルや女優のように図抜けて容姿が良いというわけでもないし、歩くだけで他人の目を引くような存在感があるわけでもない。わりと育ちが良くて、けれどちょっと垢抜け切らない普通の女の子だ。しかし、それでいてひとたび舞台の上に立てば彼女は客席すべての視線を自分に集め、見られることに恐れも怯えも見せず、ただ、だれもが自分を見ることをさも当然であるかのように振る舞うひとだった。文化祭で彼女の演じた劇をたまたま見たとき、私にとってそれはある種の衝撃だった。
「私も、迷子だよ」
 私のその言葉を彼女が信じたのかどうかはわからなかった。ただ、彼女は「そうなんだ」とだけ答えた。あの日舞台の上でエルコスを演じたこの少女の姿を私はよく覚えている。光に照らされた場所に当たり前のように立っていた、そこが自分のいるべき場所であることを信じて疑わないかのようなひとが、こんなに暗い場所で私に声をかけてきたのだということに、私は言いようのない緊張を感じていた。
「歩いてたら、知ってる道に出るかな?」
「大きい道に出ればわかると思うよ」
「そっか。ほかのひとがいたら聞いてみようか」
 交わした会話が形式的にすぎることはお互いわかっていた。夜とはいえまだ七時を回ったところだ、その気になれば道を聞ける人なんていくらだって探せる。修学旅行のしおりを開けば先生の連絡先も載っているし、禁止されている携帯電話だってみんな持ってきている。けれど、私たちは人通りのない夜の道を二人で歩き続けることを選んだ。私は、彼女に興味があったからだ。彼女のほうがなにを思っていたのかはよくわからない。
「深山さん、私のこと知ってたんだね」と声をかけると、彼女は目を丸くした。
「作文でよく表彰されてるじゃない、笹原さん。学年通信に載ってたの、読んだよ。すごく上手でびっくりしたの」
「――あんなの、全部うそだよ」
 それで知っていたのか、と思ったのは落胆のほうが大きかった。たしかに、長期休みのたびに書かされる作文で、私は何度か市や県から大きな賞をもらったことがあって、そのために朝礼の際に全校生徒の前で名前を呼ばれたこともある。心にもない、大人が喜びそうなきれいごとを、それなりに整った文章で並べると、市での金賞や県での銀賞くらいまでなら簡単にもらえる。それがなにになるわけでもないとわかっていたけれど、それでも選ばれたときの妙な達成感だけが癖になっていて、私はいくつかそういうものを書いてきていた。そんなことにやりがいを見出す自分のことはあんまり好きではなかった。
「うそだってわかってても、それが必要だと思って書けるんだからすごいじゃない」
 だから、彼女があまりに簡単そうにそう言ってのけたとき、私には返す言葉がなかった。暗がりであまりよく見えなかった彼女の表情は、それでも、舞台の上のエルコスと同じだとわかった。
「演劇は、違う?」と問えば、深山さんはちょっとだけ考えたあと、「あれもうそ、ってこと?」と聞き返してきた。
「たしかに、登場人物とか、設定とか、そういうのはうそかもしれないけど。でもあの中に、うそじゃないものがあると思ってるから、やるんだよ」
 澄んだ声で、はっきりとそう言った彼女は、最後に「たぶんね」とそこだけあいまいな言葉を付け足した。
「私は、ほんとうのことだと思わないとできない。全部うそだとわかってたら、できない」
「そのほうが、いいような気がするけどな」
「そうかな。自分ひとりしかいないんだったら、それでもよかったのかもしれないなって、ちょっと思うけど。みんなのほんとうが、ぜんぶおなじだとは限らないし」
「――すごく難しいこと言うんだね」
「でも、笹原さんならわかるでしょ?」
 深山さんのその、まっすぐな信頼に心臓が掴まれる気分がした。「わかると思うよ」と返すのが精いっぱいだった。私が思っているよりも、このひとは生きていくのが上手ではないんだろうな、とすこしだけ思った。そして、彼女はそのことに自覚的に生きていた。そういうことを全部わかっていて、スポットライトの下に立って、自分の居場所はそこだと一部の隙もなく信じて、ほんとうのことを探している。
「私は、深山さんみたいにはできないな」
「自分で選んだことないよ」
「選ばないでも、自分のやることがわかるっていうのは、すごいことだと思う」
「間違ってないかな?」
「そんなの、自分で選んだってわかんないよ」
 この世界にエルコスはいないけれど、エルコスを演じていた深山彩は、あのときのエルコスのまま、その前やその後に彼女が演じた人物を、世界を、全部まるごと内包したまま、いま私の横に立っていて、それはもしかしたら当たり前のことだったのかもしれないけれど、そのときの私にはほんとうに美しいことに思えてならなかった。そういう人間がほんとうにいるのだということを知っただけで、世界を見る目のなにかしらが不可逆に変わってしまった感覚があった。私は彼女のことをこれしか知らないのに。会話にもならないような言葉のやりあいを、ほんの数十分交わしただけだというのに。世界が変わるのはそれで十分だったし、それ以上の思い出も必要ではなかった。
 「帰ろうか」と言ったのは、どっちが先だっただろうか。たぶん、私だったと思う。深山さんはきっと、ほんとうに帰り道を知らなかった。ただ、きっと私がそれを知っているということには気づいていた。私たちは二人並んで、門限五分前に宿の前までまっすぐたどり着いた。宿の中に戻るには、私は羽貫くんと矢場さんを待たなければいけなかった。
「次からは、彩って呼んでね。那月ちゃん」
 ひとりで宿に入っていくとき、振り返ってそう笑った彼女の表情を、声を、私はその気になればいつだって思い出せる。顔や名前を忘れてしまっても、どれだけ遠いところで生きていったとしても、あの日エルコスを演じていた少女と、舞台もスポットライトもないところを一緒に歩いたことを、そのほんの数十分を、私はなくせない気がした。


2019.11.24 初出 (アンソロジー光)

今後の創作活動のため、すこしでもご支援を賜れましたら光栄に存じます。どうぞよろしくお願いいたします。