フラニーとゾーイー

 「フラニーとゾーイー」は、「ライ麦畑でつかまえて」(The Catcher in the Rye)、「ナイン・ストーリーズ」(Nine Stories)に並ぶサリンジャーの代表作であり、2014年に村上春樹による新訳、『フラニーとズーイー』が新潮文庫から出版されたことも話題となった。グラース家の末子で女子大生のフラニーと、そのすぐ上の兄・ゾーイーについての短編「フラニー」「ゾーイー」の二編を収録したこの作品は、エゴに対する葛藤、青春の繊細な心情、そして家族への愛と魂の救済を描いたストーリーだとして広く世に知られている。
 フラニーを悩ませた〈エゴ〉の存在は、我々読者をも含む、人類に普遍的なものであろう。世の中はどこもかしこもエゴで溢れている。フラニーは、大学でうち込んでおり、周囲からの評価も得ていた演劇をやめてしまうことにした理由も〈エゴ〉なのだと恋人のレーンに語っている。

エゴ、エゴ、エゴで、もううんざり。わたしのエゴもみんなのエゴも。誰も彼も、何でもいいからものになりたい、人目に立つようなことかなんかをやりたい、人から興味を持たれるような人間になりたい、ってそればっかしなんだもの、わたしはうんざり。いやらしいわ——ほんと、ほんとなんだから。
 I’m just sick of ego, ego, ego. My own and everybody else’s. I’m sick of everybody that wants to get somewhere, do something distinguished and all, be somebody interesting. It’s disgusting—it is, it is.

わたしがすごくみんなから認めてもらいたがるような人間だからって、ほめてもらうことが好きだし、みんなにちやほやされるのが好きだからって、だからかまわないってことにはならないわ。そこが恥ずかしいの。そこがいやなの。完全な無名人になる勇気がないのがわたし、いやんなった。
Just because I’m so horribly conditioned to accept everybody else’s values, and just because I like applause and people to rave about me, doesn’t make it right. I’m ashamed of it. I’m sick of it. I’m sick of not having the courage to be an absolute nobody.

 フラニーのこの言葉に、深く共感する読者は少なくないだろう。わたしもその一人だった。他人のあからさまな自己顕示の言動を蔑んだように眺める自分もまた、それによって自分の優位を確立したがっているという意味でエゴに取りつかれているのだという実感は、ありふれたものである反面、避けることのできないものでもある。それは年若いフラニーを追い詰めるのにはただでさえ十分だし、加えてフラニーは、年の離れた兄たちから形而上的な神聖さ(=無我/非人称の美)について人並み外れたレベルで教育されており、彼女が理想として抱いているのもそれらだ。フラニーのかかる信仰をまったく理解できないレーンと、彼女は決して相容れない世界に生きている。フラニーと年の近い読者は、この「フラニー」という作品において、フラニーとともにレーンを小馬鹿にし、しかし彼女の苦悩にはひとつひとつ細やかな共感を重ねながらページを捲っていく。〈巡礼の道〉という一冊の宗教書に精神的な安寧を求めて縋り付くフラニーの姿が、自分の姿に重なっていく。
 続く物語では、そんな読者を、ゾーイーはフラニーごと真っ向から否定する。グラース家の五男で六人目のこども、ゾーイーはフラニーの五つ年上の兄、職業は俳優で、グラース家のこどもたちのなかでは(フラニーを除けば)例外的に見目麗しい青年だ。彼は冒頭、兄・バディからの手紙を読み返したのちに、母・ベシーに対して、シーモア/バディを辛辣に批判する。

ここの家はどこもかしこも幽霊くさくてかなやしない。死んだ幽霊なら出たってかまわないけど、半死半生の幽霊なんてまっぴらだ。バディに覚悟を決めてもらいたいよ。あいつはシーモアのやったことは、あれ以外なんでもやるだろう——少なくとも、やろうとするじゃないか。どうして自殺だけはやらないんだい。きれいさっぱり自殺しちまうことだけはさ。
This whole goddam house stinks of ghost. I don’t mind so much being haunted by a dead ghost, but I resent like hell mind so much being haunted by a half-dead one. I wish to God Buddy’d make up his mind. He does everything else Seymour ever did—or tries to. Why the hell doesn’t he kill himself and be done with it?

誓ってもいいけどね、ぼくは眉毛一つ動かさないで平然とあいつら二人を殺してやれるような気持ちなんだぜ。へん、偉大な教育者。偉大な解放者——が聞いてあきれらあ。
I swear to you, I could murder them both without even batting an eyelash. The great teachers. The great emancipators. My God.

一回りも年の離れた兄たちは、幼いゾーイーとフラニーに、宗教哲学や東洋思想を叩き込み、「無心」を追求する形而上の学問について語って聞かせた。ゾーイーは、そのことが自分とフラニーを〈畸型児(freak)〉に仕立て上げ、エゴに溢れる世間と調和する能力を失わせたのだと兄たちを非難する。
 宗教書から得た〈イエスの祈り(Jesus Prayer)〉を唱えそれに縋ることで形而下からの精神的な逃避を図ろうとするフラニーに、ゾーイーは、富や名声・権威などといった〈物質的な宝〉を求めることと、精神的高尚さ、〈精神的な宝〉を求めることとの間には相違などなく、フラニーが〈イエスの祈り〉を唱えるのもまた同じことだと語る。〈イエスの祈り〉を唱える動機について妹に問うゾーイーの言葉は、彼女にとって否定できないものであるがゆえにフラニーの心に突き刺さり、彼女は兄に激昂する。そんなことはわかっている、自分が〈イエスの祈り〉を唱えるのが、富や名声や権威を求めるものとなにも相違ない〈欲〉から生まれた行為であることはわかっている、だからこそわたしはいまこうやって苦しんでいるんじゃないか、と。そうして、憔悴しきったフラニーは、「わたし、シーモアとお話ししたい」と零すのだ。この一言だけで、フラニーにとって、シーモアという兄の存在がどれほどのものであったかがわかる。(余談になるが、シーモアの享年は31歳であり、フラニーとシーモアは18歳差の兄妹だ。グラース家の娘であるフラニーにとって、シーモアを喪った13歳とは決して分別の付かない歳ではないどころか、グラース兄弟に共有されるシーモアの神性に納得するには十分な年齢だろう。)そんなフラニーにさらに畳みかけるように(このあたりを読んでいると、ゾーイーの容赦のなさにフラニーがかわいそうに思えてくる)、彼女が信仰しているのはキリストそのものではないと諭す。フラニーは、自分が正当化される場所(=〈簡単に水もお湯も亡霊も出る〉自宅)に逃げ込んで、自分を正当化してくれるものに祈りを捧げているだけなのだと。それは、〈最低な宗教〉なのだと。

もしも『イエスの祈り』を唱えるのなら、それは少なくともイエスに向かって唱えることだ。聖フランシスとシーモアとハイジのじいさんを、みんなまとめにまるめたものに向かって唱えたってだめだ。唱えるのなら、イエスを念頭に置いて唱えるんだ。イエスだけを、ありのままのイエスを、きみがこうあってほしかったと思うイエスではなくだ。
 If you’re going to say the Jesus Prayer, at least say it to Jesus, and not to St Francis and Seymour and Heidi’s grandfather all wrapped up in one. Keep him in mind if you say it, and him only, and him as he was and not as you’d like him to have been.

 「フラニーとゾーイー」は、最終的に救済の話であると言われている。エゴの醜さに苦しみ、形而下に生きる意志を失いかけたフラニーを、兄・ゾーイーが救い出す話。この後、憔悴しきってしまったフラニーの姿に気が付いて自らの失態に気が付いたゾーイーは、シーモアとバディがかつて使っていた書斎に足を踏み入れ、そこからバディを装って電話をかけ、フラニーを慰めようと苦心する。電話がゾーイーからのものであることをフラニーはすぐに看破するが、その後ゾーイーが語った言葉は、たしかにフラニーを救済したように見える。ゾーイーは、俳優でありたい  優れた俳優でありたいと願ったのなら、フラニーのできる唯一の宗教的な行為は芝居をすることだけだとフラニーに語る。そして、観客がどれだけ幼稚で低俗に見えたとて、俳優の心掛けるべきはただひとつ、自分にとっての完璧さを追求することだけなのだと告げたあと、ゾーイーが持ち出したのが、シーモアが、〈これは神童(It’s a Wise Child)〉に出演する幼いゾーイーに語った〈太っちょのオバサマ(Fat Lady)〉の話だった。

スタジオの観客なんかみんな低能だ、アナウンサーも低能だし、スポンサーも低能だ、だからそんなののために靴を磨くことなんかないって、ぼくはシーモアに言ったんだ。どっちみち、あそこに坐っているんだから靴なんかみんなから見えやしないってね。シーモアは、とにかく磨いてゆけって言うんだな。『太っちょのオバサマ』のために磨いてゆけって言うんだよ。
The studio audience were all morons, the announcer was a moron, the sponsors were morons, and I just damn well wasn’t going to shine my shoes for them, I told Seymour. I said they couldn’t see them anyway, where we sat. He said to shine them anyway. He said to shine them for the Fat Lady.

ここで言う〈太っちょのオバサマ〉とは、フラニーが希求するような形而上の美しさとは正反対に位置する、ありふれた、低俗なエゴの塊そのものである、形而下のシンボルだ。つまり、シーモアが弟に説いたのは、形而下への敬意を持てということだ。ゾーイーは、俳優がどこで芝居をするにしろ、そこにはシーモアの〈太っちょのオバサマ〉でない人間はひとりもいないという意味で、その場所がどこであろうと同じことだと言う。そして、〈太っちょのオバサマ〉とは、キリストそのものである  つまり、神は形而下に遍在しているのだという帰結を得る。形而上と形而下の板挟みになって苦悩していたフラニーは、ゾーイーのこの言葉のおかげで、微笑んで深い眠りに落ちていく——というのが、この作品で描かれる救済のかたちだ。
 しかし、ゾーイーの言葉はフラニーにとって、どうして救済たりえるのだろうか? ここで考えるべきは、ゾーイーの持ち出した〈太っちょのオバサマ〉論は、結局彼らの根底にあるシーモア的価値観を欠片も抜け出せていないということだ。理由を挙げるまでもない、それをゾーイーに語ったのはシーモアであり、ゾーイーが、自分たちを畸型児に仕立て上げた原因だと糾弾する、その教育を施した人物そのひとだ。シーモアの〈太っちょのオバサマ〉は、フラニーのみならずゾーイーをも救済していることは明らかだが、彼らを救済したのは果たしてシーモアであってよかったのだろうか? わたしは、「フラニーとゾーイー」において魂の救済というテーマを考える際、このダブル・スタンダードを無視することは出来ないと考えている。結局、彼らはグラース家という宗教的な場所から抜け出すことが出来ていないのではないだろうか。兄によって〈畸型児〉とされた彼らが、兄の言葉/価値観に救われるというこの物語の構造は、グラース家の弟妹たちにとっていかにシーモアという価値観が絶対的であるかという事実を示しているように思われてならない。彼らの根底には、どうしたって兄の血が流れている。ゾーイーにせよフラニーにせよ、葛藤や絶望を覚えるのも、そこから救済されるのも、すべて世間から隔絶された、グラース家という価値観の呪縛の内側でしかないとすら読めるのだ。
 ともあれ、これが正しく救済であるという可能性も棄却されるわけではない。グラース・サーガの根底には愛が流れている——ということにはわたしも同意する。フラニーが抱いた形而上への宗教的な愛、ゾーイー(シーモア)が説いた遍く形而下への畏敬、グラース家の人々が抱く家族/兄弟への愛。ベシーのチキン・スープはその典型だろう。ゾーイーがバディを装ってフラニーに電話をかけたのも、彼の兄としての不器用な愛の形のひとつだ。シーモアは形而下を愛すことの重要性を弟妹たちに説き、彼自身ある意味での博愛のひとであったとすら言える反面、ピストルで自ら頭を撃ち抜いて形而下の世界を去った。シーモアの自殺に触れて、「ゾーイー」冒頭の手紙の中で、バディがゾーイーに向けて書いた一節をここで引こうと思う。(※あいつ=三男のウェーカー)

ときどき、僕は、僕たちの誰よりも君の方がSを完全に許してたんだと思うことがあるんだ。(中略)Sの自殺を怒っているのは君だけだ。そしてそれを本当に許しているのも君だけだって、あいつはそう言ったんだ。君以外の僕たちは、みんな、外面では怒らず、内面では許していないんだってね。こいつは真実にもまして真実かもしれん。僕には分かりっこないさ。
There are times when I think you’ve forgiven S. more completely than any of us have. (…) He said you were the only one who was bitter about S.’s suicide and the only one who really forgive him for it. The rest of us, he said, were outwardly unbitter and inwardly unforgiving. That may be truer than true. How can I know?

31歳の若さで世を去ることを決めたシーモアに、誰よりも精神的に寄り添うことが出来たのは、ともすればゾーイーだったのではないだろうかと示唆するこのセンテンスから読み取れる愛もまた、ゾーイーの精神世界の解釈を難解なものにしていく。彼は、実のところ兄弟のなかで誰よりもシーモアに近い存在だったのではないだろうか? ——などと言うのがわたしの詭弁だとしても、少なくとも先に述べたダブル・スタンダードを解きほぐす解釈の一端として、バディのこの言葉は重要だろう。
 「フラニーとゾーイー」は、サリンジャー作品の中で比較的読みやすい物語である一方で、何度読んだところで答えの出せない(わたしは、「救済」の観点についての自分なりの解釈をまだ十分固められていない。どうかご意見をお聞かせ願いたい)、繊細な複雑さを孕んだ作品でもある。フラニーもゾーイーも、決してありふれた人間ではないが、彼らの抱く感情には若者の普遍的な精神性が色濃く現れている。しかし、これはただ若者のみが読むものでもない、とわたしは思う。太っちょのオバサマのために靴を磨くこと。その言葉の持つ意味は、きっとずっと同じではありえない——けれど、我々が思い浮かべる〈太っちょのオバサマ〉の姿にはどこか普遍性がある。それは、物語全体としての「フラニーとゾーイー」、そしてサリンジャーが描く彼らのナイーヴな精神性とも重なるところがあるのではないだろうか。

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文中の引用は、すべて『フラニーとゾーイー』(Franny and Zooey)による。(邦訳:野崎孝)

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