僕らに寄生した感覚〜『パラサイト』が描いた格差〜

 コロナで暇だったので今更ながら『パラサイト 半地下の家族』の解説を書いてみた。時期的にもうネタバレ云々も許されるだろう。そもそも視聴済みの読者を想定しているので、未視聴の方はご遠慮ください。

 ちらほらとレビューサイトを覗いてみると、おもしろかったという声に混じって「言うほど社会派作品なのか?」、「みんな世評に乗せられて言ってるだけじゃないのか?」といった声が目につく。『パラサイト』は公開前の段階から、格差問題をテーマにした社会派作品だと積極的に喧伝されてきた。実際、設定の段階で既に格差問題が扱われていることは明らかだろう。しかし『パラサイト』が社会派作品と感じない、思えないという声も理解できる。それは『パラサイト』が格差問題を表現するにあたって特徴的な構造になっているためだ。

 いくつか解説記事も見てみたが『パラサイト』が格差問題をどのように表現し、批判しているのかといった観点のものは見当たらなかった。自分のリサーチ不足かもしれないが、いい機会なのでこの記事では主に『パラサイト』の社会派作品としての特徴と格差問題をどのように表現、批判しているのかを解説する。

 『パラサイト』では主に「半地下」に住む主人公一家(以下、キム家)と山の手に住むお金持ち一家(パク家)の対比によって複数の格差問題に絡む複数の問題が描写されている。

 1、能力はあるのに働き口のないキム家が経歴と服装や立ち振る舞いを偽装することでパク家から信用を得る姿は、能力よりも経歴や肩書が重視される学歴社会へのアイロニカルな描写と捉えられる。

 2、浪人中にも関わらず家計のために家庭教師を行うキム家の兄妹と専属の家庭教師を雇うパク家の姉弟の対比は、勉強に限らない文化資本においても圧倒的な教育格差が生じている現実を映す。

 3、大雨のシーンでは家庭の収入が深刻な災害リスクの度合いに直結することが描かれている。両家は徒歩で移動可能な距離にも関わらず、キム家は完全に浸水して避難を余儀なくされるが、パク家では息子が庭でキャンプごっこが出来てしまう程に影響がない。

 以上のように簡単に抜き出しても、『パラサイト』において格差が描写されていることは疑いようもない。それにも関わらず本作が社会派作品に感じにくいのは、格差問題の不条理な側面が意図的に隠蔽されているためである。

 物語作品において社会問題をテーマとする時、その理不尽さを登場人物の怒りや悲しみ(あるいは悲劇)を通して描くのは一般的な方法である。ランボーは既成権力に反抗し大暴れするが、彼が最後にベトナム帰還兵の苦しみを吐露するからこそ観客はベトナム帰還兵問題の理不尽さを理解、共感することで問題視するようになる。

 しかし『パラサイト』においてキム家は徹底的に格差を問題視しない。パク家の生活水準に驚きと憧れは感じても、自分たちと比べて怒ったり、不満を吐露したりしない。『バーニング 劇場版』において主人公が、同年代の金持ちの豪邸を訪れた際に「なんで韓国には理由がわからない裕福な若者がいるんだ?」とこぼす姿とは対照的だ。キム家は終始パク家を「いい人達だ」と褒め称え、怒りも疑問も感じない。格差があって当然といった様子だ。

 『パラサイト』では象徴的に格差社会の問題を描き出してシーンも多いが、これも巧妙な脚本によって違和感が隠蔽されている。例えば<地下の男>が誕生日パーティーに乱入するシーンでは、周囲の富裕層ではなく貧困層のキム家にのみ狙いを定める。この場面は格差社会によって生じる治安悪化のリスクが貧困層に集中する状況を象徴的に表現していると解釈できる。富裕層に囲まれて貧困層同士が殺し合う姿は単純に奇妙な光景と言える。しかしこの奇妙さも直前の<地下の男>たちとキム家のやり取りのために観客からすれば至極自然な光景となる。<地下の男>の敵は見ず知らずの金持ちではなく、おこぼれを奪い合うキム家だからだ。

 この他にも『パラサイト』では格差社会の光景を象徴的に表現したシーンがいくつも存在する。どのシーンでも客観的には奇妙な状況が展開されているにも関わらず、登場人物に感情移入することでとても自然な光景に映るように構成されている。登場人物の感情や解決すべき課題によって操作された展開は、違和感なく象徴的シーンを画面上に構築していく。そのため格差社会の問題を描写しながらもコメディとしての筋を邪魔しない展開となっている。しかしこのエンターテイメントとしての高い完成度は、格差問題の描写を観客に意識させないよう作用する。

 格差を認識しないキム家と巧妙な展開により脱臭された格差描写。この二つの特徴により『パラサイト』は格差を描きながらも、格差問題を意識しにくい作品となっている。一見この特徴は『パラサイト』が社会派作品として失敗している理由とも思えるが、こと格差問題をテーマとする作品においてこれは革新的な表現といえる。なぜなら格差問題はその気付きにくさ、認識の難しさに特徴づけられる社会問題だからである。

 我々の社会は結果平等を目指していない。職業や能力に応じ、報酬には相応の差異があることを是認している。努力や成果に応じて評価されることに問題は一切ない。その意味で個々人の結果に差があること自体は問題ですらない。ただその差が余りにも拡大し、更にそれを生み出すのが個人の能力や努力ではなく親の収入や家庭環境などに規定される場合、これは格差問題となる。このため、どこまでを許容できる差として捉えるか、理不尽な格差と考えるかは難しい問題である。実際にキム家とパク家の就業状況や教育、住居などの差も、一部に関しては当然の差異と感じる人もいるだろう。それは不思議な事ではない。

 またかつての人種差別や女性差別のように成功する可能性が制度上で完全に絶たれているわけでもないのが格差問題の難しい点である。格差を一面的な理屈で合理化させる自己責任論が、貧困層においても支持されるのは格差問題の特徴の一つだ。しかし、それは裏を返せば個人の努力によって成功できる社会だと信じたい願望の現れともいえる。キム家の人達がなぜ格差を認識しないのか。それは彼らが成功を夢に見続け、格差を認めていないからだ。それが宝くじを当てるような確率だと分かっていても、そういった希望を持たなければ辛い生活を耐えることは出来ない。

 こういった格差を認めない社会の行く末を暗示するのがラストシーンの「根本的な計画」である。本作の主人公ギウは親孝行な息子だ。キム家の経済面の大黒柱になり、計画のリーダーでありながらも父親を立て続けている。そんな親孝行な息子でありながら「計画は常に失敗する。一番の計画は無計画だ」という父親の忠告を顧慮せずに、救出作戦を「計画」と命名する。ここに「根本的な計画」の実現不可能性にギウが自覚的なことが暗示されている。そしてその内容は「成功して、お金持ちになる」という自己責任論の裏に見え隠れする夢そのものだった。一見するとこの「根本的な計画」には貧困層の諦めの悪さ、前向きさを表現した希望的な内容にも映る。しかし、それは全く違う。この「根本的な計画」にこそ貧困層の諦めの実態と悲劇的な結末が表現されている。

 核シェルターから無理矢理にでも<地下の男>を救出に来た家政婦と対比すると、「根本的な計画」が如何に悠長で、遠大な作戦であるかは明らかだろう。ギウは実際のところ父親を諦めているのだ。その上で父親を切り捨てる後ろめたさを麻痺させるために「根本的な計画」が存在する。これは格差の中で将来を諦める貧困層が、自己責任論によって現在の不遇を合理化する構造と全く同一である。希望の中で彼らは諦めている。諦めの中で諦めたこと自体を忘れようとしているのだ。この諦めにより物語は親孝行な息子でさえも父親を切り捨てるという悲劇的な結末を迎える。

 『パラサイト』は格差問題の特徴を観客からその理不尽さ自体を隠蔽することで見事に表現した。そしてラストシーンではギウの「根本的な計画」を通して、格差社会における諦めとその中では家族愛すらも犠牲となる姿が描写されている。『パラサイト』が他の作品と一線を画するのは社会派作品としての基本形を崩すことで、格差問題の本質を表現した点にある。この格差を認めない、違和感を持たない感覚こそが我々自身に寄生する不条理なのだ。

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