罪悪感、あるいは理想について

罪悪感にまみれて一歩たりとも動けなくなる人がいる。努力しなければならないのに、できない。そのエネルギーがない。そして余計に自分を責める。かつて私はそうだった。そのどうしようもない状態から抜け出しかけて今改めて思うことがある。「罪悪感に常にさいなまれ続ける精神状態は、平静を失っている」ということだ。

私が罪悪感にさいなまれるようになったのは、幼少の頃には単なる「遊び」ととらえていた行動を、不適切な「中毒」であると自分が認識してからである。ここでいう「中毒」とは「嫌なことを紛らわすための不適切な行動」だ。今、努めて客観的に振り返れば、小学生も高学年になる頃にはすでに私の日常は中毒か脱力のどちらかしかなかった。人によっては過集中や抑うつと表現するかもしれない。まず前提として、常に決して無視できない「嫌なこと」が目の前にあって、行動の選択肢がすべてその嫌なことを「正攻法で解消する行為」か「忘れるための行為」のどちらかだけになる。それが私の日常だった。私は便宜上、前者を「努力」、後者を「中毒」と呼んでいるが、どちらもかなりのエネルギーを要する。いよいよどちらもできなくなると、残された「嫌なこと」に呑まれ、抑うつと罪悪感が心身を支配し動けなくなる。幼い頃は自分のことに没入するエネルギーがあったので、それでも何とか日常を紛らわしていたが、中学生~高校生にもなればふいに冷静になり自分の外の世界へ目を向ける瞬間が出てくる。その冷静な瞬間に、自分の行いへの虚無感が襲ってくる。そしてその虚無感を苗床に、抑うつと罪悪感が根を張って肥大する。

それから紆余曲折あって、私は近頃ようやくおそらく普通の人の日常生活というものを体感しつつある。そうしてかつての自分の精神状態を改めて振り返ってみて実感しかけているのは、冒頭に戻るが「罪悪感に常にさいなまれ続ける精神状態は、平静を失っている」ということだ。「まともに思考できない異常な状態」と言ってもいい。けれど若い頃の私には、それが「異常であるという発想」が無かった。「自分が特殊で怠惰であり悪なのだ」と深く信じていた。
罪悪感で身動きの取れない人がそれを苦しく思い抜け出そうとするときには、まずその罪悪感にまみれた状態を「異常なのではないか」と発想する段階が必要だと思う。些細なようで、いちばん重要な最初の一歩だと思う。私のここまでの文章を読んでいて、これは自分のことだと思う人がいたならば特に、その人には強く「自分の精神状態が異常なのではないか」と一度は疑ってみてほしい。

では、罪悪感にまみれた精神状態はどのようにできるのか。「環境からくる疲労」や「感情」によってつくられるのである。私は直近5年程度の間に人生で初めて「疲労や抑うつのない状態」を経験した。まだその状態は安定して持続しないが、なんと「疲労や抑うつのない状態」では罪悪感もなく冷静に己の失敗を把握し建設的な行動ができ、他者からの過剰な罵倒に屈することもない。そういう状態もあるのだと知ってから、私はこれが健全な状態なのではないかと思うようになった。また「罪悪感に常にさいなまれ続ける状態は異常であり、その異常な思考は自分の心身の疲労によって引き起こされるのだ」と「自分に言い聞かせる努力」をするようになった。その努力のメリットは、休息を肯定でき、心身の回復効率が上がることである。「人間には疲労で動けなくなることがあり、それが自分にとっては今なのだ」と、他の誰が肯定しなかったとしても自分で判断できる能力。これは自立して生きていく上で重要だ。罪悪感にまみれた人の多くは、おそらくこれができないのではないか?疲れ果てるまで動こうとして、疲れ果ててもなお動こうとして、何もかも使い尽くして逃げ場を求めしかし自分自身からは逃げ切れず、身体を固くして縮こまる。かつて私がそうだったように。そして今も私が時折そうであるように。けれどその時間は永遠ではないのだ。決して永遠ではない。

さて、もう一つ、罪悪感の厄介なところを話そう。罪悪感を抱く人は、かつて何かを要求されてかなえられなかった人が多いはずだ。そしてそのような環境では往々にして何かが――たとえば愛情や協力者が――枯渇していて、それ故に罪悪感にとらわれる人は何かに強烈に飢えたことのある人も多いだろう。その結果、「こうありたい」、「かつて得られなかったものを誰かに与えたい」というような理想を持つ人も多いだろうと思うのだ。罪悪感から少し距離をとることができるようになり、わずかばかり身動きが取れるようになっても、今度は自分から進んで罪悪感への贖罪としての理想を抱く。あるいは誰かへその理想や、他の何かを要求する。そしてまたふとした瞬間に、たとえば理想通りにいかないときに、罪悪感や怒りに絡めとられる。きっとそれは苦しい。けれど必ずしも悪いことでもない。

もし理想や渇望があるならば、それを誰かに要求するよりも、自分で遂行することをお勧めする。誰かへ要求するエネルギーがあるならば、きっと自分でそれを実行するエネルギーがあるはずなのだ。その理想や渇望を直視しないのはもったいない。そしてそれを、全力を以てやろうとしてできなかったとき、「そういうこともあるのだ」と、それもまた事実であり致し方ないのだと、疲れ果てた身体を以て納得するしかなくなったとき、はじめて少し何かしらの呪縛から解放されることもある。罪悪感に似た理想に突き動かされ自分が休むことを許せないならば、納得のいくまで自分のすべてを使い尽くして、疲れ果て、倒れ伏せばいい。そうして何もできなくなり強制的にタスクから解放されて、ただ回復を待つしかなくなったとき、その極限状態における放心や解離、諦めが、自分を納得させる。自分は何のためにこんなことをしているのか。何もかも何の意味もないのではないか。罪悪感に駆られて理想を追った、その精神状態は異常だったのだ。何もかも幻影だったと。

私はそんな風に自分の罪悪感と向き合った。そしてそれが今一つの区切りを迎えつつある。だからこそ実体験として言うならば、たとえばあなたの信じたひとつの罪悪感、あるいはひとつの理想が私と同様にそんな終わりを迎えても、あなたが目指した理想の価値は無かったことにはならない。あなたが無意味だという結論には帰結しない、決して。ただ「少し形が変わり、もう一度始まる」。それが具体的にどういう形となるのかは、自分自身が確かめてみるしかない。見ようとした者にしか見えない景色であり、そこにはその人にしかわからない固有のカタルシスがある。私も自分のそれを正確にはまだ言語化できずにいる。ほかの誰にも理解できないかもしれない、けれどその人には強烈な実感を伴って理解できる。どんなに大きな傷に根差していても、どんなに不健全で異常な罪悪感に根差していても、自分で自分の責任を以て「理想」として遂行した物事は、自分のものとして結実する。当初希求した形からどんなに変質しても。絶対に何かが残る。だから諦めてはいけない。変わることを恐れなければ道は連なる。
それに気付くこともまた、「与えられた不条理な運命を全うする」ということのひとつの在り方なのではないか。

もしこの文章を読んで、何か感じるものがあったなら、罪悪感に身もだえて動けない人よ、まずは本当の意味で休むことから始めてほしい。嫌なことを少し遠ざけて、かといって強い快楽の刺激で自分をごまかすのではなく、まず睡眠と食事と放心から。正攻法の休息をとろう。あなたは疲れているのだと私は思う。休息の隙にわずかでも心に余白ができれば、あとはあなた自身の心がすべてを教えてくれる。決して恐れることはない。自分がどんなに怠惰で駄目な人間に思えても。

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