自分語りについて思うこと

私はインターネット上ではいわゆる「自分語り」をすることをモットーにしている。自分が本当に事実として語れるのはそれしかないからであり、また、人の感じ方・考え方のサンプルのひとつとして自分に見えているものを提示したいからでもある。ときに表現がわがままであったり、稚拙であったり、視野狭窄であったりしても、できる限り人を傷つけない工夫はして、やはりそれを提示したいと思う。私が自分を語ることは、見知らぬ誰かにとって他者の一面を知るための重要な機会となり得るからだ。それはたとえば、顔も名前も知らない人が、私の自分語りに「同じ人がいる」と安心したり、「こんな人もいるのか」と驚いたりする機会であって、なんだかボトルメールにも似て浪漫があるではないか。

そんなの対面の人間関係で済ませろと言われるかもしれないが、それができないことも多々ある。さて、隙あらば自分語りというやつをしてみよう。

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たとえば私は他者に対してとても臆病だった。普通の人が普通にこなすコミュニケーションというものがまるでわからず、かといってこちらから発したい言葉もなく、思春期~青年期の大半を緘黙気味で過ごしてわりと無為にした。そういう私が他者を知る方法と言えば、もっぱら第三者として誰かの会話を聞き流したり、顔の見えないインターネット上での誰かの自分語りを眺めたりすることであった。

人の発する言葉やしぐさには嘘もあれば本当もある。口から出まかせでも話せるならば、それはそれでコミュニケーションがなりたつ。しかし私には言いたいこともやりたいことも特になかった。しかも他者に興味もない。何を言っても嘘になる、また自分自身、嘘を言えるほど器用でもない。でも他の人はそうではないのかも。じゃあ自分は何が違う?なぜ違う――。
飛び交う言葉やしぐさに対して「それ本当?私にはわからないが」というただ漠然とした違和感だけが見渡す限りを埋め尽くしていて、それが私の気が狂うほど静かな閉じた世界だった。ときどき、その虚しさを自己憐憫だと思ったり、ナルシシズムだと思ったり、あるいは精神薄弱だと思ったりするたびに、罪悪感や自罰感が嵐のように吹き抜けた。そしてそれを誰にも言えなかった。

同じ境遇の人がいると思う。せっかくなので、私なりに学んだことから補足しておく。現象論として一般的に、人間という生きものは、居心地の悪い状況でひとり長く不快な感情を抱えていると、誰でもそういう心理状況になり得る。しかも強く苦しめば苦しむほど、動揺が左脳を鈍らせ、苦しいのは自分が悪いからだとか、ほかの誰かが悪いからだというような発想が病的に生まれてくる。
ひとつの指標として「今、消え入りたいと思うほど自分を悪いと思うなら、中立的な事実としてあなたは少なくとも冷静ではない」と私は思う。とても信じがたいことかもしれないが、実際にあなたが悪いかどうかは、冷静さを取り戻してからもう一度考え直した方がいい。

ではどうすれば冷静さを取り戻せるかと言ったら、もう「苦しいという感覚そのもの」から無理にでもいったん離れることだと思う。これは楽しいと思うところを目指せというわけではない。まずは「無感情」でもいいので「苦しさがない方を見る」心がけをすることだ。

このとき難しいのは、それが容易にできない自分を、死ぬほど痛めつけ叱責したくなることである。「苦しみから逃れられない弱い悪い自分」に罰を与えるとなんだか安心するのだ。実際は、苦しみから逃れがたいことは弱くも悪くもないので注意してほしい。渦中にいる人には本当に信じられないことかもしれないが。本当にそうではない。

もうひとつには、他者から苦しみを正当化されたと感じるときに「ほら!自分の苦しみはやっぱり病的なんだ!自分は悪くなかった!」というなんとも後ろ暗い愉悦が生じることがある。これも自己憐憫に浸ることとして自罰感の対象になりがちだと思うが、やはりただ「あなたが冷静ではないことを示す事実のひとつ」でしかない。極限の飢餓にもたらされた食物を貪るときに生きものは到底冷静ではいられないわけだが、それと似ている。これもまた恥ずべきではない、よくある反応である。本当に信じがたいとは思うが、どうか信じてほしい。

脳機能に関する科学的な事実として、感情は強ければ強いほど引力がある。それが苦しみであろうと喜びであろうと。「思い」という言葉で混同されがちだが、強い意志と強い原始的感情は全く違う。私の人生における最大の学びのひとつは「自他に対して強い感情があるときほど、自分は冷静ではなくなっている」ということである。そして経験則として、そういうときに下した判断ほどやばいものはない。何がどうやばいかは、たぶん同じ境遇の人には語るまでもないので言わないが。もう私はできるだけ感情の起伏なく平坦で居たい――。

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さて、こんな自分語りをしたところで、自分語りに話を戻そう。
同じ境遇を経験しているあなた、私の自分語りはあなたのあり方を少しでも補強できただろうか。あなたの心細さを少しでも和らげられたらいいのだが。私が自分語りをするひとつの目的はそこなので。

一方で、もうひとつ大きな目的があって、それは「私はあくまでも私でしかない」ということを示すことである。私は自分のそれを臆さず示すことで、間接的に他者のそれを認めたい。「あなたが今、どうしようもなくあなたである」という現象を、中立的事実として肯定したいのだ。

人間誰しも「人間という生きものとして一般的な部分」と「人生経験により個別化された部分」とでできている。私は、自分の経験した個別性を語りながら、あなたと相通ずる部分を確かめたい。また一方で、相通ずる部分を辿りながら、それ以上踏み込めないあなたの個別性を確かめたいのだ。これらの工程を通じてあなたという現象を肯定したいのである。

漠然とした違和感を前にひたすら口をつぐんでいた過去の私は「他者を理解できないから自分は人と関われない」のだと思っていた。だが、今は少し違うことを思う。私は、他者を「自分の解釈の世界に取り込んで」説明したかったから――つまり、他者の世界を理解したいようでいて、自分の世界を他者に当てはめたいだけだったから――「そこに『関わる余地のある他者』が存在することにさえ気付けていなかった」のだと思う。
それはそれまでの私が悪かったからではない。ただ幸運がめぐってきただけだ。「自分の解釈の中に私を取り込もうとせずに私という事実を見ようとしてくれる人」と関係を築き、またはそんな人を遠目に眺め、それがもたらす安堵に気付くことができるという幸運。その幸運がめぐってきただけである。あなたにもたぶんそういう人がどこかにいる。あなたを中立的な事実として認め、あなたに安堵を与える人が。

その安堵の上に立ち、理解できない他者ばかりの世界を眺めてみれば、そこは思うほど孤独ではない。むしろ自然だ。
顔も名前も知らないあなたを、私は解釈したくない。解釈しないまま、あなたという現象がたしかに存在している気配を感じたい。そんな気持ちで、私は私という現象を当てもなく示している気がする。自分語りという方法で、いつか見知らぬまたは見知った誰かが私に撒いた幸運の種を撒く。

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捉えどころのない話になってしまった。まあ、自分語りってそういうものかもしれない。右往左往、私はこんなことを考えている。

自分語り、すればいいんじゃないでしょうか。私はわりと好きですね。語るのも聴くのも。

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