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スナックタイム

 いつも行列のお好み焼き屋が今日は珍しく並んでいない。それならとはじめて暖簾をくぐった。中は満員だった。相席でいいですか、と案内され、向かいの席に軽く会釈して腰かけると、すぐにオムそばが運ばれてきた。その人は熱い鉄板の前なのにスーツにネクタイのままだ。箸でオムそばをほぐし、焼きそばを薄焼き卵でくるんで口に入れた。僕のもとには豚玉のタネが来た。自分で焼くことも選べる店なのだ。タネをよく混ぜて鉄板に落とす。あとは時間をかけてじっくりと焼く。その間、向かいの客はオムそばとビールを交互に口に運んでいる。子供の頃はオムそばばかり食べていたな、と思い出し羨ましくなった。はずれのない豚玉を頼んでしまったが、次に来るときはオムそばにしようと考える。
 鉄板からしゅわしゅわ香ばしい香りが立ち上がる。僕の豚玉のせいでスーツに匂いがつくのではないかと他人事ながら気になる。僕の視線に気がついたのか、湯気の向こうから声をかけられた。

「さいきん夜が短いと思いませんか」
「はい?」
 すいぶん季節はずれな話題だ。そろそろ肌寒くなってきたというのに。だから熱々のお好み焼きに引かれて来たのだ。「そうですか」と仕方なく返す。
「そうですよ。朝でも夜でもない薄い時間が長くなっているでしょう」
「薄い時間……とは?」
 素直に繰り返して後悔した。相手は瓶ビール二本目だ。酔っ払いだ。
「夜の領域が侵されてるんです」
 返答に窮して、焼き上がった豚玉にソースを塗る。鰹の削り粉と青のりを丹念に振る。
「ハムスターが夜をかじってるんですね」
 僕はヘラを持った手を止めた。
「美味しいらしいんですよ。ハムスターにとっては」
「夜が?」
「夜が」
「それはすごく……ロマンチックなお話ですね」
「いやあ言葉だけだとロマンチックかもしれないけど、現場の人間にとっちゃあ迷惑な習性なんですよぉ」
 呂律が怪しくなってきたので、聞くのはやめて豚玉に集中することにした。向かいの客は僕の反応に関わりなくぶつぶつ言っていたが、そのうち目がとろんとし始めたので僕は静かに食べ終えて店を出た。あまり味がわからなかった。もったいない。

 家に帰ると、ロダンが待っていた。というのは僕の主観で、ロダンはご飯目当てに近寄ってくるだけだろうけど。先月からジャンガリアンハムスターを飼い始めて、僕はすっかり虜である。孫を甘やかしたい祖父母の気持ちで、ペットショップでお土産を選ぶのが楽しくて仕方がない。
「今日は回し車を買ってきたからね。お掃除のあとに置いてあげるよ」
 回し車のパッケージにはハムスターが印刷されている。これが買い物袋から見えたから、あんな話をされたのだろう。夜をかじるハムスター、想像はつかないが素敵な響きである。
「夜って美味しいのか?」
 ロダンは何でもいいからよこせと訴えている。僕はちょっと面白くなって、ロダンのケージを抱えてベランダに出た。お好み焼きで温まった体に夜の風が気持ちいい。ケージ内のロダンはエサ皿に頭を突っ込んでいたが、周囲の変化に気がついたのか、お尻をぺたんとついて顔を上に向けて固まった。星空を眺めているかのような可愛いポーズだが、そのままじっと動かないので心配になり部屋に戻すことにした。
「夜は口に合わなかったかな」
 新しくエサを入れてやると、ロダンははっと我に返り、キャベツに食いついた。ケージを掃除して回し車を設置すると、気に入ってくれたようで、夜じゅうカラカラ走り続けていた。

 それ以来僕は、天気のいい夜に少しの間、ロダンのケージをベランダに持ち出すようになった。気持ちのいい季節だったし、外の空気を吸いながらロダンを観察するのが楽しかったのだ。ロダンは夜の代わりにキャベツやブロッコリーを、僕はお茶を一杯だけ飲む。束の間のリラックスタイムが気に入っていたが、なぜかかえって寝つきが悪くなった。夜中にもたびたび目が覚めるようになった。ロダンが走る回し車の音かと考えて寝る場所を変えたりもしたがあまり改善せず、仕事でミスをすることが増えてしまった。
「そりゃあハムスターに睡眠を削られてるよ」と同僚にからかわれ、
「ほどほどにしろよ」と上司に注意された。夜をかじるってそういうことだったのか?
 どのみち寒いのはハムスターに良くないので、ケージを持ち出すのはやめることにした。ベランダでなくともどこで見てもロダンは可愛いさ。

 夜のティータイムをやめても寝られない夜は続き、体の不調は変わらなかった。睡眠外来とやらに行ってみようかと考えながら帰路についた。この間のお好み焼き屋に通りかかると香ばしいソースの匂いが流れてくる。僕はオムそばのことを思い出して列の最後に並んだ。三十分ほど待って席に案内されると、背もたれにもたれかかって伸びをする。カウンター席のひとりがこちらを振りかえって僕を見た。あの時の客だとすぐわかった。あいまいな会釈をすると、その客は調理場に声をかけ、ビールを手に僕の席に移ってきた。この店の常連なのだろうか。
「こんばんは」
 僕はまた会釈をする。
「先日はどうも。どうですかその後。ハムスター飼われてるでしょ」
 この人の会話はなんだってこう突飛なのかな。
 そうですけど、と渋々答える。
「うちのハムスターは夜をかじったりしてませんよ」
「少なくともあなたの飼ってるハムスターはね、そうかもしれません」
 男は僕の目をのぞきこんだ。
「味を覚えさせなければ大丈夫ですよ。ハムスターを夜に連れ出したりしなければね。脱走でもしない限り、そんな機会はない生きものです」
 ぎくっとしたのに気づかれただろうか。
「いや反省してるんですよ。あの日はちょっと浮かれてて飲みすぎてしまってて、余計なこと口走ってしまいました。私のせいも多少はありますよね。若干ね。夜をかじらせたでしょ?」
「別になにも、ベランダで野菜を与えてみただけですよ。問題ですか?」
 そこへ店の人がやって来て、出来上がりのオムそばを鉄板の上にふたつ置いた。
「美味しいですよね。オムそば」
 男はヘラで卵に切り込みを入れながら続けた。
「夜って、ハムスターには格別にいい匂いらしいですよ。いったんかじり始めると止まらないんですと。そうするとねえ、夜にほころびができちゃうんですよ。放置しておくと夜がめくれてしまう。顔色よくないですね。大丈夫ですか?」
 せっかくのオムそばが、また味がわからなくなった。
「ただの睡眠不足ですよ」
 男はさっさとたいらげて、ビールを注ぎ足している。突飛な酔っ払いだから、突飛な質問をしたっていいだろう。
「その、ほころびの話ですけどね……」
 冗談だというていで尋ねてみる。
「夜がめくれてしまうと、どうなるんですか」
「想像つくと思うけど、だんだんめくれが広がっていくんですよ。するとこちらのエネルギーが漏れ出ちゃう。近くにいる人が体壊しちゃったりね。それを見つけて繕うのが私の仕事」
「繕う……」
「縫うんです。ちくちくと」男は顔いっぱいに笑った。
「これを食べたら仕事に行きますけど、一緒に来ます?」

 どこへ連れていかれるかと少々ひるんだけれど、普通の住宅街にある公園だった。
「近所のお家で飼ってるハムスターが脱走して、その子は幸い見つかったんですが、捕獲されるまでに相当かじったようでしてね……ほらこの辺」
と男は言うのだが、空中になにかあるのかさっぱり見えない。
「小さなハムスターの噛みあとですからね、まだいいんです。これがワニだったりしたらすぐ世界滅亡ですよ」
 男は怖ろしいことを言いながら鞄から道具を取り出した。小さな箱から黒っぽい糸と長い針を選び、針に糸をすいっと通すと、ちょうどロダンのような色味の当て布を宙にあてがって針を通していく。男の手元を見ようと反対側に移動してみたが、そこになにがあるのか、ないのか、やっぱり見えない。わからないままに仕事は進行して、最後に男が糸を引き抜くと、当て布は完全に夜の一部に溶けこんだ。
「これで完了」
「繕い自体は簡単なんですけどね、ほころびを発見するのが難しいんですよ。なんせ小さすぎます」
 男は道具箱に入っていた名刺を一枚渡してくれた。
「お宅のハムスターが夜をかじってる疑いがあれば、ここに連絡ください。最近名刺を新しくしたんですよ。肩書きに悩んでね。格好いいでしょう?」
 受けとった名刺には、『夜半裁縫師』とあった。

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