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小山田浩子『穴』を読んだ。芥川賞受賞作とは知らずふと手に取って大変感銘をうけた小説なのだがその話ではなく。
この本に収録されている『いたちなく』という短編を読み、古い記憶で頭がいっぱいになったのだった。「いたちなく」は漢字をあてると「鼬鳴く」。ネコ目イタチ科イタチ亜科イタチ属の動物のことである。

私が小学校まで住んでいたのは、緑のまったくない工業地帯だった。戦後に建てられた長屋などが残る、木造民家ばかりの時代で、まだ天井裏にネズミの足音を聞くのが珍しくなかったからだろう。そんな下町にもイタチが棲息していた。

庭を持つ家もほぼない地区だったので、犬猫もあまり見かけなかった。その頃は屋内で犬を飼うなどありえなかった。近所に鳩小屋のあるお宅があったが、小屋は屋上に設置されていたから、間近に鳩が飛ぶのを見たことはなかった(飛んでたら糞害で大変だったろう)。檻に入っていない動物に接する経験がないのだ。だから、帰り道に手を繋いでいる叔母が「あ、いたち」と小さく叫ぶその言葉が強く印象に残ったのだろう。
たとえば犬や猫を道端で見かけたとして、子供には「ほらワンワンだよー」などと教えてやり、安全ならば触らせたりもするだろう。子供はじっくり観察しようとするだろう。だがイタチの場合、「あ、いたち」の一言で終いだった。観察することもできない。イタチと聞いて振り返ったときにはもう消えているからである。一、二度目撃したことはある。祖父母の家の並び、傾きかけた木造の平屋とその隣家との数十センチのすき間を、黒っぽい影がひゅん、と飛ぶように通り過ぎていった。形も色も判別できず、ただ動物らしいものが横切っただけだ。見たものを例えるなら、サイボーグが加速装置をオンにして移動した時の残像みたいな感じだ(わかるのかこれで)。だがその時も横の大人が「あ、いたち」と言ったので、あれがイタチというものなのだとインプットされたのである。

イタチをファンタジーな存在だと思っていたわけではない。大人の話から、害獣であることも察していた。けれど、実在の動物でありながら、決して目で捉えることのできない生き物だと理解していたふしがある。

数年前、最終バスに乗り損ねて実家までタクシーを利用したときのこと。お喋り好きの運転手さんと「ずいぶんこの辺も変わったねえ」というような話をしていて、実家近くの細い川にさしかかった。だいぶ宅地になったけれどまだ田んぼが残っている。
「田んぼのあの辺でたまにイタチも見かけてねえ」と運転手さんが言った。
「イタチですか」私は驚いた。町中より農村部にいることは不思議ではないのだが、何十年も暮らしていて、見たことも耳にしたこともない。私は、なぜイタチと判別できたのかを運転手さんに聞きたかった。素早く走る姿がちゃんと見えたのかと。しかし馬鹿げた質問だったのでしなかった。いい大人が。イタチとはいえ常に走り回っているわけではあるまい。だいたい私は静止しているイタチをまったく知らないのだ。

ニホンイタチでGoogle検索してみた。オコジョやフェレットもイタチ科らしいので、どことなく見たことがあるような風貌の画像が並ぶ。可愛いと言えなくもない。けれど、私は違和感でいっぱいだった。気持ちが悪くなった。私が知っているイタチはこんなではない。残像だけを残して移動することのできる、実在する動物であったはずなのに。
カメラに捕らえられたイタチを見てしまって以来、記憶の中のイタチは飛ばない。いっそのろい。加速装置は壊れて、下町の町並みと同じように、失われてから惜しむものになってしまった。

イタチにしてみれば知ったことではなかろうが。


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