春月

春が来るよ春が来たよ花が咲くよ
耳に馴染んだ名調子に女たちは色めきたつ。
今年も、春のパーツ売りがやってきた。

冬の顔は流行遅れ。
春の顔に着替えなきゃ。
「これまでのわたしを脱ぎ捨てて」
春の花を咲かせなきゃ。

「知的な女になる口紅の魔法はいかが。
 乙女の肌が蘇る魔法の頬紅だよ」
梅の雨には溶けて消えてしまうのに、春の魔力には抗えない。
女たちは魔法を買い漁る。

「悪くなりたけりゃこれはどうだい。
 眉を細くつり上げて、つんと唇を尖らせりゃ、
 美貌の悪女の出来上がりだ」

この春こそはと心を決めて、魔法の眉墨を手に入れた。
仕上げの呪文は柘榴色の口紅。
鏡のわたしを隠して塗りつぶす。

ぬるい春霞に暈けないように、きらきら光るジャケットを着て、
怖じ気と焦りを蹴飛ばすための、細いヒールの靴を履く。

急ぐのだ。春が後押ししているうちに。
風が変われば、春の魔力も萎んでしまう。

押され小突かれ倒れるまえに、じぶんでじぶんを欺してしまえ。
弾き出されるよりさきに、わたしがやつらを欺してしまえ。


扉を開ければ、ひんやりと。
鞄に忍ばせた象牙のナイフが、春の宵に浮かんでいた。
象牙はわたしの装いを嗤う。ひんやりと。
足が凍りついて動けないわたしを。

ひゅう。

風が暴れて、わたしを連れてく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?