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グレープ・ジュース

まだ九月は半袖の時期なのに、今年の夏は早仕舞いしてしまった。様子見していたが、戻ってくる気はなさそうである。夜が更けると寒いほどだからと羽毛布団の準備までしておきながら、カレンダーの九月という文字に圧されて秋物を出すのは躊躇している。服装と季節感を結びつけるのは窮屈でやめてしまいたい。米国のドラマなどノースリーブを着てる隣が毛皮のジャケットだったりする、あのくらい自由にモノを着たい。どうせ気候はこの先も変化していくのだし、衣替えなんて風習もなくなればいい。制服だって何だって、寒いと思ったら長袖着て、暑がりの人は年中夏服着てりゃいいのである。ファッションの流行が滞ろうと知ったことではない。

この夏はたくさん(例年に比べれば)巨峰を食べた。
連れ合いは種を面倒がるので、さいきんの種無し巨峰はありがたい。唇ではさむだけでつるんと剥けてくれる皮も、手がべたべたにならないで助かる。
ぶどうはあのこっくり深い色がいい。葡萄という文字がすでに、深い紫の色と豊かな芳香を放っている。白ぶどうも美味しいけれどなんだか葡萄を食べた気がしないのは、単に私の読書経験からくる思い込みだ。

エラリー・クイーンの『フォックス家の殺人』(青田勝・訳)。十代の頃読み漁ったクイーン作品の中でも愛書のひとつ。
グレープ・ジュースは過去の殺害現場に登場する。被害者が口にしたジュースに毒(ジギタリス)が混入されていたのである。小説では「グラスに毒を落とすことが出来た人物は誰か」が追求されていくのだが、読み進むうちに濃い紫色のジュースがやたらと飲みたくなり、紙パックの100%ジュースを買ってくる。理想はウェルチだが高いのでドールで妥協する。それをコップになみなみ注いで、色を楽しみつつ探偵小説の続きを読む。これが至福の時間であると言ったら変人扱いされるだろうか。されるんだろうな。

物語に描かれた食べ物飲み物を美味しそうだと感じるのは誰しもあることだと思うが、そこに毒が含まれていたら……と想像するだけで、違った風味が加わる。味覚だけでなく、視覚と前頭葉も動員しての「味わう」という行為。安上がりでもって、素晴らしく贅沢な気分になれるので、物好きな方はお好きなミステリー本でお試しあれ。
私はこの遊びをやりすぎたので、グレープ・ジュースに「#毒」「#殺人」といったタグがついてしまった。いまだに紫色の液体を見るたび、溶けているかもしれない毒のことが頭に浮かんでしまう。馬鹿だなあと呆れつつも、いつまでも小説の虚構に振り回されてしまうことが、ちょっと楽しかったりもする。


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