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17:もう一つの基本「気付き」後編 気付くとどうなる?

前回までのおさらいとしては、

  • 人生が苦しみの連続となるのは、思考が次々と問題を探し続けているから。そして、殆どの人が思考の檻に囚われれているから、思考の所業にすら気付いていない状態。

  • だから「思考の観察」と「気付き」で、思考の檻から脱出しましょう。

みたいなお話でした。

今回も前回の続きみたいなもので、「気付くとどうなるのか?」という、結構どっちでもいいような話。

私の例

私個人の経験としては、一回の気付きだと何でもなかったりするけど、
気付きを重ねていくと、段々と「この世界の重要度が下がっていく」みたいな感覚になっていきます。

丁度「こんなけ゛ーむにまし゛になっちゃってと゛うするの」みたいな感じです。

※「こんなけ゛ーむ」=人生、および人生で起きる諸々の出来事

私はウルトラマンじゃないので光を放ったりしないし、たとえ気付いても感激したりしなかったり、そういうのは一過性のものなので、そこまでドラマチックな展開にはなったことはありません。

いや、本当はドラマチックな展開になったことあるのかもしれないけど、先程書いたように、この世界に対する重要度が下がっていってるので、そういう感激やらドラマチックな展開というのも重要ではなくなっているのでしょう。多分。

※だからといって、全ての苦しみが消え、もはや明鏡止水の境地、涅槃寂静の境地かというと、そんなことはない。粒あんパンだと思って食べたらこしあんパンだったりすると、激昂してヒスを起こすだろうし。

おじいさんのランプ

そんな体たらくなので私の体験なんてものはあてにならず、気付くとどうなるか、何かうまい具合に「気付きの描写」がされているものはないかと探したところ、まず思い浮かんだのが案の定ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』。

ただこれは長いし、人によっては訳が分からないとなるので、もっとシンプルなのはないかと探したところ、新美南吉の『おじいさんのランプ』があるじゃありませんか。

青空文庫:おじいさんのランプ 

場面はクライマックスで、電燈という新しい技術のせいで商売の危機に陥ったランプ売りの巳之助が、「これから毎日家を焼こうぜ」状態となり、火打ち石でもって区長さんの家に火を付けるシーン。

巳之助は火打で火を切りはじめた。火花は飛んだが、ほくちがしめっているのか、ちっとも燃えあがらないのであった。巳之助は火打というものは、あまり便利なものではないと思った。火が出ないくせにカチカチと大きな音ばかりして、これでは寝ている人が眼をさましてしまうのである。
「ちえッ」と巳之助は舌打ちしていった。「マッチを持って来りゃよかった。こげな火打みてえな古くせえもなア、いざというとき間にあわねえだなア」
そういってしまって巳之助は、ふと自分の言葉をききとがめた。
「古くせえもなア、いざというとき間にあわねえ、……古くせえもなア間にあわねえ……」
ちょうど月が出て空が明かるくなるように、巳之助の頭がこの言葉をきっかけにして明かるく晴れて来た。
巳之助は、今になって、自分のまちがっていたことがはっきりとわかった。――ランプはもはや古い道具になったのである。電燈という新しいいっそう便利な道具の世の中になったのである。それだけ世の中がひらけたのである。文明開化が進んだのである。巳之助もまた日本のお国の人間なら、日本がこれだけ進んだことを喜んでいいはずなのだ。古い自分のしょうばいが失われるからとて、世の中の進むのにじゃましようとしたり、何の怨みもない人を怨んで火をつけようとしたのは、男として何という見苦しいざまであったことか。世の中が進んで、古いしょうばいがいらなくなれば、男らしく、すっぱりそのしょうばいは棄すてて、世の中のためになる新しいしょうばいにかわろうじゃないか。――

こんな感じで、もうそのままなので、解説なんて野暮なものはいたしません。ちょっと違う点といえば、巳之助は口に出した後に自分の言葉に気付いているけど、まあええやろ。

というか、この抜粋シーンだけでなく、最初から読んだ方がよく分かるし、
何より伏線も色々張られていて物語として傑作なのでちゃんと読んでください。このシーンの前段落には、物事に対して右往左往し執着する様子がシンプルに描写されているし。

児童向けのシンプルな話だしタダで読めるしで、この話が分からないという人は、本noteでは最早救いようがないので、意識高い系セミナーやキラキラ☆ハッピー系にでも行ってカモられてください。最近はそういうのも下火みたいだけど。(いや、いまだにネズミ講やマルチ商法があるくらいだから、地下に潜っただけなのか?)

自分の中に孤独を抱け

フィクションだけでは心もとないのでもう一例、観察と気付きを重ねるとどうなるか、エッセイ?の中からの描写を。

岡本太郎だけが芸術家だとか、ピカソをのり超えている、などと公言した。だから自惚れて威張っていると叩かれた。
岡本太郎といっても、ここに居る「この自分」のことじゃないし、そんなものにこだわってもいない。ここに生きて、食ったり飲んだりしている、個人のこのぼくを指しているわけじゃないんだ。
自分になら責任がもてるし、またもつからこそ、御当人には気の毒だけれど、岡本太郎の名を借りただけ。だからそれは、自分でやると決意したすべてのひとのことであって、厖大な数の”岡本太郎”のことなんだよ。たまたま岡本太郎という人間がそこに居るから、それをうまく使いこなして、この世界で思いきり遊んでやろうと思ったんだ。
遊びといっても、ただの娯楽や遊興じゃないよ。やれること、やりたいことを、思う存分やりきるということ。いわば自分が「別の自分」を、つまり別の存在であるもうひとり自分を、客観的に動かしているっていうイメージだ。なにしろ自分自身だから、すべて思いどおりになる。
いつも自分は”自分だけ”なんて思っていると、なにか言われたり憎まれたりすれば、チクショウと思うし腹も立つ。悔しいと思ったり、ひどいときには寝られないかもしれない。ほとんどのひとがそうだろう。
だけど後ろから自分で自分を操作していれば、つまり自分自身にわざとそれをやらせているんだといつも自分自身を客観視していれば、どうってことはない。むずかしい問題にぶち当たったり、つらいことにぶつかったりしたときには、「おまえ、かわいそうだな」って言いながら、後ろから頭を撫でてやる。
そうやって精神的に自分の頭を撫でてやることもあれば、逆に「おまえ、もっとやれよ」って後ろからケトバすこともある。そんなふうに操作をしながら、僕は人生を送ってきた。
こんなことを言うと、自分と他人の区別さえついていない、と批判する者もいるだろう。どうも猿族は自分と他人様を区別しすぎるからね。小さいエゴをかわいがり、守ろうとするあまり、ひとはひと、自分は自分と形式的にわけてしまうんだ。
でもじつは、自分だって他人だし、他人だって自分なんだ。まことに己を超えて、他に強力に働きかけていく、単数であると同時に複数者である者こそ、ほんとうの人間だ。

岡本太郎『自分の中に孤独を抱け』

この辺の描写は、『ニューアース』とか読んでいる人なら(頭だけでなく体験や実感として)納得できるのではないでしょうか。

以上、まとめとしては、

  • 気付いても特にドラマチックな展開はない。ましてや「良いことが起きる」なんてことはない。02:注意点その2に書いたとおり。

  • 気付くとどうなるか、悟るとどうなるかなんて、他人の体験談は参考にならない。そういうのは自分自身で体験すること。

  • ただ、思考抜きになると、今まで執着して躍起になっていたことが、そんなに重要ではないように思えるようになるのは人類共通かも。

  • やっぱり新美南吉は天才やと思う。二十代でこんな物語が書けるなんて。私などは足元にも及ばない。

  • 岡本太郎も凄いけど、実家が太かったという事実もある。それをいうならゴータマ・シッダールタもだが。

ということで、今回で「観察」と「気付き」という2つの基本についての話はおしまい。

次回は、「なぜ引き寄せや悟りの本を読んでも効果がないのか?」について書きます。

応援、ありがとー