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9/2。死ぬのめっちゃ怖い

私のことをよく観察してくださっている皆さんはご存知だと思いますが、何を隠そう私ははかなりの強がりです。強がりという性質が強すぎて、ひとからそれを指摘されるのがたまらなく嫌だと思うほどです。「強がりじゃなくて、強いんだよね。」と見透かすように言ってもらうと、涙が出るほど安心する。そのくらいには強がりです。

私の夢は地上で最強になることでありました。それは、誰よりも腕っぷしが強くなる、という意味ではなく、シンプルに「怖いものがひとつもない」生き物になりたかったのです。なにかに怯えながら生きるなんて、まっぴらごめんなのです。

稚拙な空想の中だけで「怖がるべきもの」を想定しては、これは平気、これは怖くない、と脳内で自分に勝ち判定を出し続け、ついに私は「怖いものは、あと虫とお化けの類だけだ。」と胸を張って言いました。口に出せば本当になっていくかもしれないから、色々なところで言いました。「私は、虫とお化けさえ怖くなくなればもう地上で最強だ。」みんな、まこりんは面白いなあと笑ってくれたけれど、わたしは結構本気で言っていたんだよ。

そう、気づいてしまったんです。

私、死ぬのがめちゃくちゃ怖い。

この前、新宿にあるVR ZONEというところに遊びに行きました。

最新のVRを使ってスリルやファンタジーを体験できる施設です。その中にはVR空間の中で地上200メートルの高層ビルから木の板を渡って、その先にいる猫を助けに行くというゲームがあって、私はそれに意気揚々と参加しました。

私は高いところを怖いと思ったことがない(と思い込んでいる)ので、こんなものだれよりもスムーズにやってみせるという自身に満ちていました。

結果、バーチャル空間の中の地上200メートルに足がすくんで動けず、一歩踏み出せばがたりと揺れる足場にびっくりしてしゃがみこみ、やっと猫のところへたどり着くも「ねこー!!!ねこー!!!」と叫びながら抱きしめるばかりで帰ることも出来ず、また足場が揺れると大声で叫び、その様子を見ていた友人に寄ると、私のあまりのうるささとへっぴり腰の惨めな姿に、フロア外や他の階からもギャラリーが集まってきたほどだったそうです。

係員のおにいさんに、「お姉さんヒステリーっすね(笑)ネコー!!ネコー!!って叫んではりましたよ(笑)」と若干煽られつつVR装備を外すと、私は全身の筋肉の過度な硬直を強いられた後の、疲れ切った肉の塊としてぎりぎり地面に立っている状態でした。誇張表現なしに、その後1時間弱は全身の震えがとまらず、動機もおさまらず、握力もマシュマロを握りつぶせるかどうかわからない程度しか残っていませんでした。

私、たとえバーチャル空間だとしても、死ぬのが怖いんです。

父はリビングでゲームをする人で、ゾンビゲームや恐竜を撃ち殺すゲームなどを平気で娘の前でしては、けっこう隅々までコンプリートするまで根気よくやり続けることがありました。私は、それを後ろから見るぶんには楽しかったので、ゲームというものに苦手意識はありませんでした。

だけれど、もう少し大きくなっていざ自分がプレイをする立場になると、途端にものすごい恐怖が押し寄せるのです。ホラー系やリアルなシチュエーションのバトルゲームが怖いのはもちろん、スーパーマリオやクラッシュバンディクーなどのファンシーな世界観かつ、ゲーム内での死に何度かのチャンスが存在するタイプのゲームでも、同じく肩がぐっ、と凝るような恐怖を感じていました。

ゲーム内で、私が池に落ちたせいで、操作しているクラッシュバンディクーの残りライフがひとつ減る。それだけのことがものすごく怖くて、死んでしまうたびうるさく叫び声をあげました。胸がずきずき痛みました。死、死、うしなうことが本当に怖いのです。少年漫画だって、主人公が初めからものすごく強くて、ぜんぜん傷つかない、そういうものが好きでした。フィクションの中で誰かが死んだ時、私の中でも誰か一人分ぐらいの何かを殺さなければ、バランスがとれないのだとどこかで思い続けています。映画だって、人が死ぬ映画は、ほんとうはできるだけ観たくないのです。死、というものを、きっと死ぬまで、受け入れることができないあまり、アレルギーのように恐れているのです。

わたしは死にたくないし、きみにも死んでほしくない。みんな、200年くらい、そう、生きることに本当にくたびれて、ぐだぐだに煮込み尽くされて茶色くなったおでんのはんぺんみたいになって、あと体験していない重要なことはたぶん死ぬっていうことくらいだな。とピュアな気持ちで思うことができるようになるくらいまで、いやになるほど生きて欲しい。200年生きようね、なんて一歩間違えたら怪しい宗教みたいに聞こえる言葉を、ファンのみなさんに対して言いながらちょっと泣きそうになったりする。

変なんだ、すべてのやさしい生き物、おもしろい生き物、かわいい生き物、どうしようもない生き物も、200年くらい生きてくれよ。ぜんぶしゃぶり尽くして嫌になるまで、もう顔も見たくなくなるくらいまで、そばにいようよ。そう思うことがあるんです。ほとんど、いつも。

なので、私、死ぬのがめちゃくちゃ怖いです。きみが死ぬのもめちゃくちゃ怖い、自分が死ぬのと同じくらい怖い。

死ぬのが怖すぎるあまり、好きだと思った時には口からそのままの言葉が出ているし、嫌いだと思った時も口は必死でふさぐものの顔全体にはっきり出てしまう。今、感じたことを、今、垂れ流して生きて行くことの、都合のいい理由になってしまっている。

私は父方の実家のある地域が好きで、一人になりたい時によく勝手に遊びに行っていたから、祖父が亡くなったときも純粋な寂しさ以外の感情を感じることはなかった。生きている時にたくさん会っていた。話もした、目もたくさん見た、長い人生のほんのほんの一部だとしても、私の身体に含んで持ち帰れるものがたくさんあった。

しばらく故人に会っていなかった人ほど、亡くなったあとに取り乱す。どうしても用事があってお通夜にいけない私を責め立てていたのも、生きているうちにはしばらく祖父に会っていなかった人たちだった。

人は、死んでしまったらもう何を言っても仕方がない。死者を弔うことや悼むことで整理されるのは、その人自身の持つ亡くなった人に対する想いのほうであって、亡くなったあとにその人に対してできることなんか本当の本当にはひとつもないのだと思っている。

だからこそ、大切だったはずの人が突然逝ってしまって、そのことによってその人を大切に思っていたことを知るということが起きた時、人は、あれほどまでに取り乱すのだろうな。と思う。

本当に大事だったということを亡くしてから気づくなんて、あまりによくある話なのだけれど、そういう経験をするたびに、そういう経験の渦中にいるひとを見るたびに、「そんなこと、あってたまるか。」と、思ってしまう。

無くしてから気づくなんて、そんな間抜けなことしてたまるか。私は今日も、今も、この一分一秒も、大事なものは大事だとちゃんと、忘れたりなんかすることなく、ちゃんとわかっている、はずだ。そうでないなら今この瞬間に意識してちゃんと思い出せ、一秒ごとに思い出せ、忘れ続ける生き物ならば思い出し続ければいいだけだ、そんな口ばかりの理想論で、今日も「死」という恐怖と戦っている。目の前のものを大事にして生きることで、戦っていけるのだと信じている。

なので、私、死ぬのがめっちゃ怖いです。私が死ぬのもきみが死ぬのも、私の大切な人が死ぬのもきみの大切な人が死ぬのも、きみの大切なひとのそのまた大切な人が死ぬのも、全然無関係な誰かが死ぬのも、全部、めちゃくちゃに怖いです。

あとついでに雷も怖いのだと先日の雷雨の時に気がつきました。引き続き虫とお化けも怖いです。

これだけ怖いものがあっても、200年くらい生きた頃にはきっとどれも克服できているはずなので、みんな、頑張ってそのくらい一緒に生きてください。さみしいので。


ありがとうございます!助かります!