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足るを知る

ヨーガの教えの基礎となる「ヤマ(禁戒)ニヤマ(勧戒)」という、人として大切にしたい十項目があるのですが、
ニヤマ(勧戒)の二つ目に「知足(サントーシャ)」はあります。

ヤマ(禁戒)の五つ目の「不貪(アパリグラハ)」が先に来ていることも、もちろん意味があってのことで、この二つの関連性を感じるのですが、
今回は仏教に馴染みのある方なら耳にしたことがあるであろう「知足ー足るを知る」の方について個人的に思っていることを書いてみます。

わたしはこの「知足」が苦手です。
現代を生きる私たちや、子供たちにも、もしかしたらハードルが高いことかも知れません。

なぜなら、何かを手に入れること、欲しいものの代替品を手に入れることに大きな努力を要さない時代を当たり前に生きているから。

食べるもの、人付き合い、情報、入って来るもの、自分の意思で取り込むものと本当に多種多様にありますが、そのひとつひとつをできるだけ丁寧に、
「自分が快適である量を知る。」
ということがこの項目だと思っています。

なんだかこのままではよくない気がする。
なんだか重たくなってきた気がする。

ちいさな違和感やこころの痛みがそれを教えてくれていて、その時の自分に必要な量を探るチャンスが訪れます。
(こうやって書いていていま初めて「チャンスだったんやな」と気が付きました。笑)

世には多種多様な分野で、疑問に思ったらすぐにでも教えてくれるツールが溢れているのですが、もしかしたらそこに答えはないかもしれません。


「満足」を感じるのは、他でもなく、過去の私でもなく、「いまの私」だから。

わたしがこれを一層苦手とするのは人間関係において、とくに子供のころの母親やいまのパートナーのように自分のテリトリー内に介入する人に対してです。


身近な人に対しては最も幼稚な自分が出るというのは割とアルアルかな、とも思うのですが、わたしの場合、安心安全な領域を共有する人物に対しては求めるものが大きくなる(こわいw)ということが起こります。

これが喧嘩の原因になることがよくあって、「求めすぎてしまった」と反省するのですが、先に書いたように「わたしの快適な量」を適切に伝えることが下手であること、相手に同等のものを求めてしまう、というのが原因だなぁと思います。

受けとるものと、発するもののバランスも、相手とその相手の状況によって変化しますもんね。

少し話がそれましたが、喧嘩が悪いということでなく、その主張の量さえも「今のわたしが快適」であるか気づくセンサーを磨いていく必要があるな、と自覚する出来事だなと思いました。

生活において、食べるものにおいて、情報においては自分にとっての「少し足りない」くらいが快適なのかな、と感じることがあります。田舎へ越してからの体感の快適な変化を思ういまは、とくに。

そうして、「まる○」のでっぱった部分を小さくしたり、足りない部分を補ったりしながら、ふんわり満たされた状態を探っていく。
そんなわたし的な知足の取り組みをしています。

写真は実家に帰った際に母が持たせてくれたフリージアです。


盛りの花のみずみずしい佇まいや、豊満で爽やかな香りには、一気に心が満たされるように感じます。



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