「アート」という概念との出会い その2
今年の冬は寒いですね。
キラキラと美しい新雪の上を、獣の足跡をたどり歩いたお正月休みの終わりの写真です。
しっかりご飯を美味しく食べるということと、一日に可能な限り歩くということ、そして誰がなんと言おうと(誰も何も言わないけどw)ゆっくりお風呂に浸かるという繰り返しで、温泉にいけない分を丁寧に取り返していこうという立春前です。
前回の続きになります。
勉強にコンプレックスにファッションに、部活に人間関係。ただ毎日を生きることに割と必死だった高校2年の夏に、友人に声をかけられ参加した小さな美術研究所の体験レッスン
早速ということでA3程の画用紙をイーゼルに立て、静物デッサンをしてみようかという流れでした。
目の前に並べられたのは、三つの積み木だったと思います。長方体、三角、球体、だったかな。
周りには石膏像をデッサンする人、油絵のようなものを描いている人、絵画教室?のご婦人方、各々が各々のことをしている慣れないざわついた雰囲気の中で、何を考えていたかは全く記憶にありません。
初めて描いたデッサンは、「全然うまく描けなかった」と思っていたら、そこのお髭の学長さん(油絵画家でユーモアのある方でした)が、唸ってくださったのです。「すばらしい。」と
初めての「講評」というものにドギマギしていた私を解してくださろうとしての優しさもあったのだと思いますが、「物の見方」について評価されたことが生まれて初めてで、新鮮な衝撃をうけたのでした。
一言一句記憶していないのですが、「あなたは物の形だけを追わず、空間全体、雰囲気で捉えているね。」そこが素晴らしいんだよ。というような言葉だったと思います。
「物の見方」を客観的に評価してもらえる場というのは、私の通り過ぎてきたそれまでの教育の現場には無かったのだと、大人になってから気がつきました。それほど新しい感覚だったのです。
わたしにはわたし独自の視点があり、それは他の人と違う可能性があるのだ。
そしてそれぞれが持っている独自の視点や表現方法は「それぞれ」尊重されるものなのだと。
その後は美大に進むことになったため、その対策ということで、入学志望校の合格傾向に寄せていく練習内容にはなっていくのですが、
大手の美術予備校とは一味違った豊かな感性を持つ「アーティスト」の学長先生に集中的に教えを請うことのできた高校最後の一年は、今の私の一角を形成するものだったなあと思うです。
(今ではきっとありえないけれど、デッサンの講評が長引いて、帰宅が終電になり、親に怪訝に思われていたこともありました)
「芸術とは」「アートとは」という問答は学生のときにやり過ぎて、もう手放したのですが、
いろいろな論はあれど、芸術とは感動をもたらすことだと今はシンプルに考えています。
感動すること、感情が動くこと、美しいものに心が動かされること、新しい価値に気づくこと
そして、それらを追い求めるがあまり、あたまでっかちで心と身体をおざなりにしてしまった若いころの自分があるからこそ、いまのわたしが在るのだと思います。
わたしのヨガのレッスンを「詩的でアーティスティックだ」と称してくれた方がいました。
集中が深まり、微細な部分に触れるのは、穏やかで正直で美しい言葉でありたいと日々心がけています。
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